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人規十七則

十一、天に仕える

一、天は本来、心を持っていないものであるから、民の心をその心としている。天みずから視たり聴いたりする働きがあるのでなく、民の視たり聴いたりしたことを、みずからのそれとしている。そして人は、天地の気を受けて体とし、天地の理を受けて心としており、これが人の心をそのまま天の心とするということなのである。

ニ、聡明と叡智を備えて、自分の本性を十分に発揮することができれば、天はその人に命じて天子とならせ、人々を統治し教化して、本来備えている本性に復帰するように指導させる。これこそ、伏羲や神農や黄帝や堯や舜が天子となって天の道を受け継ぎ、人の守るべき法則を樹立した理由である。

三、そもそも、人間は天地の心であって、天地万物はもともと我と一体である。好悪の心を共通にし、自分と同じように他人を見、我が家と同じように国を見、はては天地万物を自分と一体のものとみなす。この基本をおさえていれば、あえて努力をしなくても、天下はおのずからよく治まる。天下の人の心は、すべて自分の心である。世に容れられなくても不満をいだかず、天を楽しみ命を知る者が、どんな境遇におかれても悠々と対処でき、道もあまねく行われるのである。

四、天の道としての誠が完全に身に備わっていて、本当の善をはっきり見抜いていくのを、本性のままのことという。反対に、本当の善をはっきり認識して、それを積み上げていって、そこから完全な誠に行き着くのを、道を修める教えのことという。

五、聖人の心というのは、天下万物を一体のものとみなす。すべての人間を分け隔てなく扱い、およそ生きとし生ける者に対しては、みな兄弟姉妹親子同様の情愛をもって保護教導し、そうすることによって万物一体の念を実現しようとするのである。

六、誠とは天の働きとしての究極の道である。その誠を地上に実現しようとつとめるのが、人としてなすべき道である。

七、聖人の聖人であるゆえんは、心が天理そのものであって、人欲が混じっていない点にある。それはちょうど、純金の純金たるゆえんは、純度が高く、銅や鉛が混じっていないのと同じことである。人間は心が天理そのものであれば聖人であり、金は純度が高くさえあれば純金である。純金たるゆえんは純度にあって重さにはなく、聖人たるゆえんは、天理そのままの心にあって才能、力量にはない。

八、人間の心には本来「天理」が備わっている。しかし、この「天理」も「人欲」によって覆われてしまう。人間の心というのは、いわば「天理」と「人欲」がせめぎあっている場である。だから、「天理」を発想するためには、「人欲」との戦いにうち勝って、これを取り除かなければならない。

九、湯王は天から降された輝かしい命令に正しく従われた。『詩経』では、「王朝の天命が降されたのはまだ新しい」とうたわれている。君子はどんな場合でも新鮮であることを求めて最高善に従っていく。

十、天が万物を生育するには、物の素質に従って発展させていく。偉大な徳を備えた人は、天命を受けて天子となる。楽しめる君子は、美わしき徳に輝き、民に慕われ人と和らぎ、天からの賜物を受けられる。天はそれを守り助けて天子となる天命を降し、手厚く恩寵を重ねていく。

十一、君子が天下のことに対するには、逆らうこともなければ、愛着することもない。主観を去ってただ正義に親しんでゆく。

十二、人の身というものは、その本質を天からいただき、徳、すなわち人格を心のうちに具えているものである。わが身は天地の期待を寄せられたものであり、神が依存とされるものであって、尊い存在である。わが身が尊い存在であるということを自覚せず、わがまま・ひがみ・よこしまなのは、自分を馬鹿にすること甚だしいものである。

十三、天体の運行は健やかでやむことがない。君子はこの健やかさにのっとって、みずから務め励む努力を怠ってはならない。反復して道を踏み行い、時機が到来したら前進する。天徳をたのんで人の先頭に立ってはならない。

十四、天の命令によって、人が先天的に具えるものを性すなわち生まれつきという。人それぞれ天性の自然に従い行うべき道がある。これがすなわち道である。あるいは宇宙の森羅万象が調和的に行われているので天道といい、あるいは人倫相互の関係が円満に行われているので人道といい、名前は違っても天道すなわち人道である。聖人でない限り、人の行いは必ずしも道と一致せず、聖人は人の行うべき道を修正し天下の法則とする。これを教えという。

十五、禍福はみな自分から招くものである。『詩経』に「長い間、天命に従って行動し、みずから多大の幸福を求めた」とあり、『書経』に「天の与えた災いはなんとか避けることもできるが、自分で招いた災いは逃れ生きることはことはできない」とあるのは、このことである。

十六、心には、二つの面がある。一面は、自分自身に対処する心である。困難であっても、のどかな態度で対処し、少しも天を怨み人をとがめない。もう一面は、世を憂う心である。天下を我が家のように、万民を我が子のように思い、親切親身であり、世が乱れ民が苦しむさまを見ると、食ものどを通らず、安眠もできないようになる。しかし、一見、両面あるように見えるものの、実は一つの心である。

十七、天下の問題をもって自己の責任とする。自己の心を正し、人の道の重いことを深く考え、問題につけ事件に触れて、ともにその解決について心を磨きあうようにしたならば、天下後世、必ず志を継いで成し遂げる人が現れる。これこそ、聖人の志と、学問とである。自己の栄辱窮達、毀誉得喪、すなわち環境の問題や他人からの批判、成功不成功のごときは、すべて天命であって、問題とするところではない。


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