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人規十七則

三、己を修める

一、志を立てて修行につとめるのは、あたかも樹を植えるようなものである。根を生やす段階では、ひたすら土をかけ水を注いでやるだけでよく、枝や葉、花や実のことに思いをはせる必要はない。現実にありもしないものに思いをはせたところで、なんの益もないのである。ただ当面の栽培の努力さえ怠らなければ、枝や葉も、そして花も実も自然についてくる。

二、根源があるものは、流れ去ってもまた流れてきて、一刻も止むことがない。人は、根源のある姿を自分の志とすべきである。学問の修得においても、徳の実践においても、みな同じである。根源がないために流れに中断が生じたり、無理に先に進むようなことがあってはならない。

三、修行法の眼目は事上練磨(事上磨練)である。「事上」とは毎日の仕事、毎日の生活であり、そういう中で自分を鍛えることが、事上練磨である。もちろん、本を読んだり、人の話を聞いたりして他人の経験に学ぶことも、自分を鍛える有力な方法である。しかし、それだけでは、単なる知識のレベルにとどまり、生きた知恵としてはたらかない。生きた知恵を身につけるためには、みずからきびしい現実の中に身を置いて、実践体験を積み重ねることが必要である。事上練磨は、いつの時代にも当てはまる実践倫理である。

四、順境にあって最善の道を尽くすことは当然であって逆境にあった時、平常の主張を変えず態度を変えないためにこそ、平常における精神の練磨が必要である。

五、静かな環境にばかり気をとられて、克己の修行を怠ると、事に対処したとたん、たちまち心が動転する。人間というのは、日常の仕事の中で自分を磨かなければならない。そうすれば、しっかり自分を確立し、静時であろうと動中であろうと、いついかなる事態になっても、冷静に対処することができる。

六、『詩経』には「緑の竹のように素晴らしい才能豊かな君子は、細工師が切り込んだうえにやすりをかけ、たたいたうえにすり磨くように、どこまでも修養をする。」とうたわれている。「切り込んだうえにやすりをかけるよう」というのは、人について学ぶことを言ったのである。「たたいたうえにすり磨くように」というのは、自ら反省して修養することである。切は骨、磋は象牙、琢は玉、磨は石を磨くことで、『切磋琢磨』は学問修養に励む意味になった。

七、凡人といえども、進んで学問をし、天理そのままの心に到達するならば、堯や舜のような聖人になることができる。

八、君子は必ず内なる己自身(意念)を慎んで修めるのである。

九、人の毀誉を問題とせずに、自身を磨き真実を尽し、言葉を気楽に口にせず、実践をもって自身の責任とし、人の師となることを好まずに、自身を磨くためにするところの実学を修める。

十、世間の毀誉というものは、あてにならない。自分の心のうちに、そしられることをおそれ、ほめられたいと求める心があったなら、表面の声にばかり心を使うようになって真実に対する心が日々に薄くなってゆく。君子たるものの務めは、自分の身を修め、真実を尽すことにある。世間の毀誉などにこだわる必要はない。

十一、自分で自分をごまかさない。たとえば誰もが臭いにおいを嫌うように悪いことは素直に悪いとして追放し、美しい色を愛するように善いことは素直に善いとして追求する。そうすることが、我とわが心を満ち足りたものとすることになる。

十二、反省して自己を責めよというこの語こそ、聖賢の書物に記されている無数の言葉の結論である。一切の問題の根本はわが身にある、自己の身こそ責任の所在である、というこの語もまた、同じ努力の道を説いたものである。天下の問題は、大小の別なく、この二語に示されている。

十三、天子から庶民に至るまで、どのような身分にある人でも、同じようにみなわが身をよく修めることを根本とする。その根本のわが身をよく修めることがでたらめでありながら、末端の国や天下がよく治まっているというのは、滅多にない。

十四、平穏無事をよいことに楽しみに耽り怠惰豪遊したならば、これこそみずから災いを求めるものである。禍福はみな自分から招くものである。天の与えた災いはなんとか避けることもできるが、自分で招いた災いは逃れ生きることができない。

十五、人々は自分の一身の修養が根本であるということを理解していない。人々の心というものは、上の命令に従わずに、上の好みに従うものである。上にある者が、欲望を断ち切り、先頭に立つなら、命令しなくても、人々は自然に従うのである。
日も足らずという態度で、ひたすら日夜刻苦勉励し、政治教育を修め、学問武芸を練り、それぞれ自分の仕事に勤め、力を合わせて、災事を未然に防ぐべく努力する。これに反し、日も足らぬという有様で、日夜遊び呆けているのは、何事であるか。

十六、出来ないことだ、と言ってそのままに放っておくものを賊という。文武の道に励み、倹約に努め、自分の身に照らして一日として怠けることはなく、教養を受けて成長していながら、徳を知ることができないのであれば、心ある人間と呼ぶことはできない。従っているようでいながら、その後ろではあれこれ反対のことをいう悪賢さを、そのまま隠しておくことを賊という。

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