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人規十七則

五、意を誠にする

一、何事でも広く学んで知識を広め、詳しく綿密に質問し、慎重に我が身について考え、明確に分析して判断し、丁寧に行き届いた実行をする。それが誠を実現しようとつとめる人のすることである。

二、誠とは天の働きとしての究極の道である。その誠を地上に実現しようとつとめるのが、人としてなすべき道である。誠が身についた人は、努力しなくともおのずから的中し、思慮をめぐらさなくともおのずから達成し、道にかなっている。これこそ聖人である。誠を実現しようとつとめる人は、努力をして本当の善を選び出し、しっかりと守っていく人である。

三、上級者の信任が得られないようでは、人民を治めることはできない。友達から信用されないようでは、上級者の信任は得られない。親に満足されないようでは、友達から信用されない。我が身を反省して誠実でないところがあるようなら、親に満足されない。現実の事態について正しい善をはっきりと認識できるのでなければ、我が身を誠実にすることはできない。

四、書物の数はきわめて多いが、自分がそれらの諸書から何を実践の上の要とするかというと、それは結局、「誠」という一字になる。誠とは、具体的に言えば、君としては民に対し仁であること、臣としては忠であること、親としては子に対し慈であること、子としては親に対し孝であることが、それである。

五、人の君としては仁愛の徳にとどまってそれを標準とし、人の臣としては敬慎の徳にとどまってそれを標準とし、人の子としては孝行の徳にとどまってそれを標準とし、人の親としては慈愛の徳にとどまってそれを標準とし、人々との交際では信義の徳にとどまってそれを標準とする。こうして意念を誠実なものにしていく。

六、表面だけの言葉、見せかけの行為は、人を心服させ信用される価値はない。至誠のよく人を感動させるに及ばないのである。
周の文王は、至誠をもって老人を養った。それ故に伯夷や太公望が感動して奮起したのである。天下の人々が感動して王に心を寄せたのである。しかし文王の心では、その初めに伯夷・太公望を感動させよう、天下の人々を感動させようという下心があったのではない。もしこの下心があったのであれば、どのような良い事をしても、それは至誠ではない。

七、天地鬼神、すなわち天地の神も人の霊も、姿があるものではない。しかし、名山大川、宗廟社稷は、みな人々が心におのずから崇敬の念を催すところであり、これを奉祭する人物が、身を清めて、真心と崇敬とをもって奉仕するなら、自然に顕現されるものがあり、これが、百神が享けられるということである。神が享けられるのは、祭るものの心に誠があるからである。心がすでに誠であるなら、職責を完遂して民を安んずることができる。

八、人が憂えれば自分も憂え、人が喜べば自分も喜ぶ。人情も天理も、ここにおいて至れりである。これは、慈愛の深い親が愛子に対する気持ちに似ている。子供が喜べば親の心は非常に喜び、子供が悲しんで泣けば、親の心は非常に憂える。これは、親の憂えも喜びも人情に発し天理に基づいたもので、少しの偽りも混じっていない。憂えたり喜んだりすることを、同じく憂えたり喜んだりするのではなく、ともに憂えたり喜んだりするのである。

九、何もしないで怠けてばかりでは、精神はぼんやりしてきてふさがって通じなくなる。人の心は霊妙であって、天理が宿っているから、使えば使うほど輝いてくる。精神を覚醒させ、終日気持ちを集中させれば、多くの哲理を追求できる。

十、「至誠にして動かざるものは、未だこれ有らざるなり。誠ならずして未だ能く動かすものあらざるなり」とある。
至誠にして動かざるものは、未だこれ有らざるなり。吉田松陰先生は既に死を覚悟しながら、生死の問題はしばらく捨て置いて、この語の真実であるか否かを身をもって実験された。一切の根本は至誠にある。わが身に反省して至誠に恥じるところがないか、ここに松陰先生の生涯を一貫する精神があった。松陰先生の至誠は、下田の獄にあった時も、獄吏を感動させずにはおかなかった。野山の獄にあって、絶望に瀕している同囚を感奮させたものも、この至誠であった。しかし、江戸の法廷は、松陰先生の至誠に動かなったように見える。しかしながら、松陰先生の死をもって、松下村塾の諸門下は、初めて動かされ、師の骸を越えて、維新への実践となった。

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