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人規十七則

四、心を正す

一、後悔したことが、いつまでも心に引っかかり、とらわれていたのでは、良知が曇らされ修行の妨げとなる。また、変化する情勢に柔軟に対応することができない。

二、我が身に腹の立つことがあると身の正常を保つことができず、恐れおののくことがあると身の正しさを保つことができず、楽しい好きごころがあると身の正しさを保つことができず、悲しい心配事があると身の正しさを保つことができない。つまり心が動揺すると身は修まらない。心がしっかり正常に落ちついていないと、何かを視てもはっきりとは見えず、何かを聴いてもはっきりとは聞こえず、何かを食べてもその味がわからない。これでは身の修めようがない。我が身をよく修めるには、まず自分の心を正すことだ。

三、偏って公正でない議論は、その人の心が物に覆われていることを見抜く。出任せの議論は、その心が何かに陥溺していることを見抜く。邪な曲がった議論は、その心が道理から離れていることを見抜く。ごまかして言い逃れようとする議論は、その行き詰まって困っていることを見抜く。

四、孟子が生涯みずから任務としたところは、「人の心を正しくする」ことである。邪説がほしいままに行われて人の心の正しい働きを傷つけることを憂いて、救おうと努力したのである。

五、外を飾るよりも内心を修め、内に省みてやましいところを持たず、心に恥じることもない。君子の長所は、他人にはうかがえないところ、その深い内心の境地にこそある。内心の徳が充実しているので、行動を起こすまでもなく人から尊敬され、言葉を出すまでもなく人から信用される。

六、権勢家から、いったん、贈り物を受けたり招聘に応じたりしてしまうと、後にその権勢家が傲慢な態度で臨んで来ても、直接にそれを責めることは難しく、かえって自分を曲げてその人に従い、いつしかその党類に陥ってしまうこともある。人間とはこうしたものであるから、正直剛明の人物でないと、この境遇から離脱することが困難である。聖人はどんな時でも悪に染まらないのみでなく、かえって彼らを感化し、不義の仲間に入れようとはしない。自身が聖人なら、決して身を失う心配はない。

七、心というものは、ただ一つのものであるが、欲がまじった危険で安定しない心(人心)と純粋精妙でとらえにくい心(道心)がある。本来の心の正常を守ってそこから離れず、絶え間なく実践して、必ず道心が我が身全体の主宰者となり、人心がいつも道心の命令に従うようにすると、危険なものも安泰になり、微妙なものもはっきりして、自然に起居動作や言語の上でも過ぎたり及ばなかったりするような間違いがなくなる。

八、高い徳や立派な行いを喜び、天位を共にし、天職を治め、天禄を食む。まず自分自身が、聖人賢者の言行を書き記している書物を読み、聖人賢者の言葉を我が言葉とし、聖人賢者の行いを我が行いとする。我が身が修まってはじめて人の心の非を正すことができる。しかしながら、これを行っている人物は少なく、我々自身、みずから反省するとき、いかに困難なことであるかを理解することができる。  

九、豊年には生活が安定しているので若者に頼もしげに見えるものが多く、凶年には生活が窮迫するので、若者に乱暴者が多くなるが、これは天が豊年の時と凶年の時とに異なる才能を与えるからではなく、凶年には環境が悪くなるので、それが彼らの心に影響するのである。

十、浩然の気を養うには、まず平坦の気、すなわち夜明けの、利害に煩わされない清明の気象を根幹として、これをだんだんに時間をかけて養うのがよい。それは、騒々しい時は気持ちが乱れて心がくもってくるからであって、朝の静かで清明な気象を養うべきである。しかし、静寂なところにおいて我が本心を把握することは、もちろんよいことであるが、活動しているところにおいて我が本心を把握することは、いっそうよいことである。我が本心を把握し、徐々に時間をかけて養うことは、浩然の気を得る一つの方法である。みずから体察して、深い道理を悟ってほしいと思う。

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