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人規十七則

十二、私を除く

一、どんなことにも拘泥することなく、心は澄んだ鏡の面のごとくで、あらゆるものに順応する。道をもって交わろうとするならば、その道をよろこんで交わり、礼をもって接しようとするならば、その礼をよろこんで接する。昨日、道や礼がなかったとしても、今日、あるならば、その道や礼をよろこび、昨日の無道や無礼をとがめることなく、明日、無道や無礼をしむけないかと予測することもない。公平弘大の態度である。

ニ、聖人の行動の形は時と場合によって同じでなく、あるいは遠ざかって隠遁し、あるいは君に近づいて仕え、ある時は去り、ある時は留まるが、その根本の精神は常に自己を潔くすることにある。もし我が身が潔くさえあるならば、行動の違いなど問題にならない。自己を潔くするというのは、私心を持たないことである。すなわち自己を正しくするということである。

三、人生における最大の病根は傲(おごり)の一字である。人間の心はもともと天地自然の理であって、少しの汚染もなく、きわめてすっきりしたものである。昔の聖人の素晴らしい点は、つきつめれば無我に帰着する。無我であれば、おのずから謙虚になりうる。謙(謙虚)はあらゆる善の基であり、傲はもろもろの悪の始まりである。

四、君子の人に対する態度は、寛大にして思いやりがあり〔仁〕、分け隔てすることがない〔公〕。これと異なり、前日一つの過ちや罪を犯すと、その人が悔いても改めても、許すことがなく、非難のしどころがない人物に対しては、そう思っていないことまでさぐりだして罪し、行動の上にたまたま中正を失っているものが見つかったなら、心まであわせて罪する。そのような人物は君子とは別である。

五、自分が出るべきか出ざるべきかとという際に、進退に拘泥してしまうと、かえって窮屈になってしまう。私心さえ除き去るならば、進むもよし退くもよし、出るもよし出ざるもよし、そのときに応じて自由に道を選ぶことができる。

六、聖人は、天地万物一体の仁をとなえて世の人々を教化し、人々がみな私心を克服し、心の壁を取り去って、心の本体に返るように導いた。

七、聖人の心というのは、天下万物を一体のものとみなす。すべての人間を分け隔てなく扱い、およそ生きとし生ける者に対しては、みな兄弟姉妹親子同様の情愛をもって保護教導し、そうすることによって万物一体の念を実現しようとするのである。

八、名声は実際の反対である。実際を求める心が重くなれば、それだけ名声を求める心が軽くなる。実際を求める心がすべてを占めるなら、名声を求める心はなくなる。

九、自身は要職にありながら、賢者を抜擢登用しなかったり、賢者を妬んで陥れることが、しばしばある。私心をもって事に対処したり、自分の愛憎の念に働かされたり、自分と意見が違うからということで賢者を登用しなかったり、陥れたりすることは、慎むべき、戒めるべきことである。

十、人間の心には本来「天理」が備わっている。しかし、この「天理」も「人欲」によって覆われてしまう。

十一、人に善があれば己を捨てて私心なく人に従い、他人から善をとって行うことを楽しみとする。

十二、君子が天下のことに対するには、逆らうこともなければ、愛着することもない。主観を去ってただ正義に親しんでゆく。

十三、仁の人は、私心がないから、人を愛することができ、人を憎むこともできる。仁を目指しているなら、悪いことはなくなる。

十四、「浩然の気」は、本来、天地の間に充塞しているものであって、人がそれを自分の気としているのである。人は私心を除き去ることができれば、気は至大となって、天地の気と同一体になる。我々の行為が、自己本来の徳に立脚し、多くの人に施して、歴史に照らし、天地神明に反することなく、聖人が現れても承認し、長く天下の道、天下の法となるように心掛けていれば、いつしかこの気は、天地に満ち古今を貫いて充塞する。「浩然の気」は、古来、聖人賢者が伝えて来て、孟子が明らかにしたものであり、人にとって最も切実な問題である。

十五、伊尹の志は、国家を憂え民衆を憂うるのみであって、一点の私心もなかった。この志に誤りのないことをみずから確信し、天地宗廟に対し少しも恐れるところがなく、天下後世に対し少しも恥じるところがなく、また天地宗廟も天下後世も、すべてが伊尹に私心がないことを信じて、その志を非難するものがなかった。これが伊尹の志であった。

十六、仁者が天下全体のために計画を立てるときには、決して本人の目に美しいもの、耳に楽しいもの、口に美味なもの、身体に安楽なものなどのために、自己本位に計画するのではない。自分の官能的快楽を満たすために、人民の衣食に必須の物資を損耗し収奪するような真似は、仁者は断じて行わないのである。

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