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脳腫瘍の愛猫との1年間のお話 【ペットロスとは。。?】

愛猫が空に旅立ってから3週間と少し。パソコンを開いて、noteを書くことができるのだから私は最悪の状態ではないということだろう。

愛猫の死に対して、自責の念はないものの最後の光景を時々思い出してしまう。愛するものが確実に死に向かっていくのに何もしてやれない無力感。
”見守って声をかけて傍にいることが今、飼い主がやってあげられること。”と言われて腑に落ちるほど私の死生観、宗教観は確立されていない。私は弱い未熟な人間だ。

カウンセラーと話をした。一番落ち込む夕方にただ誰かと話をしたかった。
ストレスが重複しているとその人は言った。介護のストレス、喪失のストレス。その他、今の私が置かれている状況。糸が絡まりあっている。
体力、気力、胆力が回復したら少しずつその糸をほぐそうと思う。今はどうにも気力がない。

この世の中にはペットを亡くしたその日から働いている人がいるではないか。強い人たちだ。私は今は働けていない。誰かに迷惑をかける状況で今は働ける気がしない。逃げているのだろうか。愛猫の死を言い訳に逃げているだけなんじゃないか。でもいま無理すると本当にうつになりそうだ。

猫の介護をしている途中から私はぎりぎりのところでやっていた。最愛の猫を脳腫瘍で亡くす恐怖、絶望、確実に訪れる死。やせ細り動かなくなった身体。これらを真正面から受け止めていたら心が折れた。気分転換が下手だった。でも気分転換してもきっと頭には家にいる猫のことを考えてしまうから同じであった気がする。

私は弱い人間だと思うことで自己肯定感がどんどん下がっている。もともと低い自己肯定感だが、さらに低くなっている。今は悪あがきしないでおこう。もがけばもがくほど沼にはまる気がする。

猫がいない家に帰ることには慣れた。写真も少しずつ見られるようになった。夕方の時間帯がつらい。なぜなんだろう。昼と夜が入れ替わる時間帯に何があるんだろう。

ネット記事に重度のペットロスに陥らないためには「溺愛しないこと」とあったが、そんなこと可能だろうか。猫に対する愛情の量をコントロールする?どうやって?他の趣味を持て。ということなのだろうが喪失の悲しみの真っただ中にいたらその趣味も楽しめなくなるのではないか。

今の辛さは私が猫を思い切り愛したその証拠なのだと思っている。この辛さに胸を張ろうとまでは思わないが、愛猫の生きざま、死にざまを見届けてやった。今、わかっている事はこれだけだ。




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