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事高野山とイエス・キリストの謎。エビソード2 大秦景教流行中国碑

中国における景教(ネストリウス派キリスト教)の様子については、西安(旧・長安)で発見された有名な、「大秦景教流行中国碑」が物語っています。これは781年に建立されたものです。しかし、のちの迫害の時代に隠され、1625年になってイエズス会士が発見しました。

この景教碑や、中国における景教文書、遺物等の研究者として、佐伯好郎教授は世界的に有名です。景教碑の複製は、弘法大師・空海の開いた高野山と、京都大学文学部陳列館にもあります。

景教碑は、次のような神への賛辞から始まっています。

「大秦景教流行中国碑。中国における景教の普及を記念して。大秦寺僧侶・景浄(シリア名アダム)叙述。……見よ。真実にしで堅固なる御方がおられる。彼は造られず造る御方、万物の起源、私たちの理解を超える見えない御方、奇しくも永遠に至るまで存在し、聖なるものを司る宇宙の主、三位一体の神、神秘にして真実な主なる神である。……」

この「神」は、原文では「阿羅訶」(アロハ)という漢字です。これはシリア語またはヘブル語の「神」を意味するエロハに漢字を当てはめたものでしょう。

景教碑に記されたところによると、唐の皇帝は景教を重んじ、中国の10の省すべてに景教の教えを広めました。こうして国は、大いなる平和と、繁栄を楽しんだといいます。また景教の教会は多くの町々につくられ、すべての家庭に福音の喜びがあったと、景教碑は記しています。

王室の儀式、音楽、祭、宗教的慣例なども、ガブリエルという名の景教徒が担当していたと記録にあります。

当時の長安の都は、このように多分に、景教文明によるものでした。たとえば景教徒の自由と人権の思想は、中国社会に強い影響を与えました。唐の文学者・柳宗元(773~819年)の文学の中に、奴隷解放思想などが現われるのも、この頃です。

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