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2024/4/26 デカローグ1・デカローグ3

本当は4月投稿にして毎月の投稿にしようと思っていたのですが、GW前に一気に仕事が流れ込みGWの合間の平日もしっかり仕事をしていて気がついたらまとめるのがこんなに遅くなってしまいました‥(ちゃんと計画すれば、毎月投稿できる)とまあ、私のルーズなところに目を瞑っていただき、今回からは自分にとって初の何ヶ月にもまたがる作品を鑑賞することにしたので、各回ごとに少しずつ感想を書いていければなと思います。
なんやかんやで少しずつ自分が見た舞台のNoteが増えていくと嬉しいですね笑


1.デカローグとは

ポーランドの名匠、クシシュトフ・キェシロフスキが発表した 『デカローグ』。旧約聖書の十戒をモチーフに 1980 年代のポーランド、ワルシャワのとある団地に住む人々を描いた十篇の連作集です。人間を裁き断罪するのではなく、人間を不完全な存在として認め、その迷いや弱さを含めて向き合うことが描かれたこの作品は、人への根源的な肯定と愛の眼差しで溢れています。もともとテレビ放映用ミニ・シリーズとして1987-88年にかけて撮影され、その質の高さが評判を呼び、その後世界で劇場公開。スタンリー・キューブリック、エドワード・ヤン、侯 孝賢(ホウ・シャオシェン)など世界の映画作家が賞賛の声を贈りました。この十篇の物語を2024年4月~7月、新国立劇場にて完全舞台化いたします。
(『Introductin はじめに』より一部引用)

十篇の連作集を少しずつ切り分けて舞台化するので、数ヶ月にまたがる超大作になっています。それぞれが独立した作品でありつつも、ふんわりと全体では繋がっているためその描写を探すのもこの作品を楽しむ一つの要素だと思います。

2.デカローグ1-ある運命に関する物語

(0)前書き

大学の言語学の教授で無神論者の父クシシュトフは、12歳になる息子パヴェウと二人暮らしをしており、信心深い伯母イレナが父子を気にかけていた。パヴェウは父からの手ほどきでコンピュータを使った数々のプログラム実験を重ねていたが・・・・・。
(デカローグ公式プログラムより引用)

(1)序盤

父と息子の2人暮らし。何気ないいつの日かの朝という2人の日常から舞台は始まる。朝起きてからその辺にいるハトにエサをやり、のそのそ起きてきた父 クシシュトフと一緒に子 パヴェウは腕立て伏せをする。
いつもの朝を父と過ごしていたわけだが、実はパヴェウは近くに建設中の教会の前で犬が死んで倒れているのを目撃していた。

子どもの好奇心や感受性というのは本当に凄まじいもので、人間が生きている中で最も難しい問題の一つである「死」について、パヴェウはクシシュトフに問うのである。とても朝一でするような内容ではない。
しかし、クシシュトフは拒むことなく、パヴェウの純粋な疑問を受け入れて答える。「死ぬということは、心臓が止まり、血液が回らなくなり、脳が動かなくなる。オールストップというように。」いかにも無神論者らしく論理的な回答である。当たり前だが、パヴェウの次なる質問はこうだ。「死んだ後の人はどうなるの?」クシシュトフの答えは思い出だった。「その人がやったこと、顔や形そういったものが残るんだよと。」
純粋な子どもが発する考えや言葉というものは、時に大人にはクリティカルに突き刺さる。教会の前で死んだ犬は、楽になるためだったのか?という子からの問いかけにも父は怒ることなく答えていた。
その後、朝が終わり再び教会の前を通り過ぎたパヴェウは死んでしまった犬がどうなったのかに興味を持つ。そこに、同級生の女の子が箱を持って近づいてくる。彼女が手にする箱の中には小さなモルモットがいたのだ。まだ小さな箱の中の世界しか知らないであろうモルモットは、死んでしまった犬と正反対の今からを懸命に生きようとするという構図になっていた。

(2)中盤

そんな純粋で心優しいパヴェウは、クシシュトフがやっていることを理解しながら、家にあるパソコンでのプログラムや計算を簡単にこなしていた。仕事柄やることも多く忙しい父に代わり、世話係のようなことをしていたのは父 クシシュトフのに当たる姉(叔母)イエナだった。
イエナもまたパヴェウからの質問に答える。人生は宝物という表現を彼女はしていた。より良く生きるために、人はどんなに些細なことでも手を差し伸べ、親切にする。これが大事なのだと説いていた。神様はいるのか?というパヴェウの問いに対しても、抱き合うことでぬくもりを感じさせ、そこから包み込むなにかという形で目の前に表現させていたように思う。

クシシュトフの大学での講義シーンも一節存在した。
講義内容は、「母国語ではない言語を正確に翻訳することがいかに難しいか。」についてだった。
仮に母国語に対して英語の何かが理解できたとしても、元々の母国語にピンポイントで翻訳できる解答がない場合、それを説明するには、歴史的・文化的・政治的背景などさまざまな要素を理解した上でないと解釈できないと説いていた。その時に使うのが、コンピュータという相棒なんだという風に彼は語っていた。

大学の講義が終了し、クシシュトフは家に帰宅する。
クリスマスが迫る中、パヴェウが池の氷が凍ったことをクシシュトフに伝える。クシシュトフとの約束で池の氷が凍った時にはコンピュータで計算するという約束をしていたようだ。物語の中では、他の学校の友達がスケートをする中、パヴェウはまだそれができていないという描写が少しだけ描かれている。そのため、パヴェウにとって池が凍ることはコンピュータでの計算ができるようになることであり、その計算の結果問題がなければ自分も友達と一緒に滑ることができる!という彼にとってはとても大事なことだったのだ。目を輝かせた子を前に父はコンピュータを使い、一緒に答えを導き出そうとする。
「条件があれば結果が導ける、答えが出せる」
そんな中パヴェウは、気温を正確に把握するために気象台に電話をし、それをコンピュータで計算する。計算の結果、パヴェウの3倍の重さでも氷は割れないという結論が出たのだ!賢いパヴェウは、クリスマスにもらうプレゼントを見つけていたのだ。大丈夫という結果、友達が楽しんでいたスケートを自分でもできるという喜びをパヴェウは得ていた。

(3)終盤

一夜明けた翌日。パヴェウが学校に行った後、自宅で作業をしていたクシシュトフのインクの小瓶が突然割れる。古くから何か不吉なことの前触れとして、何かが壊れたり、いつもと違うことが急に起きたりすることはどういうわけか良くある。この場面でのインクの小瓶が割れて、インクが大量に漏れ出してしまったことは、それに該当するものだと思う。
インクの小瓶が割れたことと重なるように家の外がどこか騒がしい。救急車の音、ヘリコプターの音。なにか日常ではないような喧騒が入り乱れる。
そんな中、パヴェウの友達の女の子の母親がクシシュトフのもとを訪ねてくる。彼女の娘もどうやら家に帰ってきていないようだった。パヴェウとその娘さんは学校が終わった後、英語の塾に行くという予定だった。しかし、塾が終わっても全然帰ってこないのだ。クシシュトフはいつか帰ってくるだろうと呑気に考えていたが、念のために英語の先生に電話をしてみる。英語の先生は風邪を引いており、塾を開かずに子どもたちを返したというのである。ここで、何か様子がおかしいということにクシシュトフは気づく。
彼はいつも息子とやり取りしていたトランシーバーを取り出し、一縷の望みをかけてパヴェウの名前を叫ぶ。息子が生きていることを信じて。死んでいないことが事実であることを信じて。街中が慌ただしくなる中、ある親子とすれ違う。その親子もどうやら我が子の帰りが遅くなっていたため、子どもが無事であることに安堵していた。そこに父がパヴェウについて聞く。状況を察して隠そうとする父母、それに反して素直に答えるその子ども。出てきた答えは、パヴェウは池の上でスケートをしていたということであった。全てを察したクシシュトフ。慌てて池に赴き、目前に広がる光景をようやく受け入れることとなる。
父が信じた最高の相棒であるはずだったコンピュータは必ずしも完璧なものではなく、奇しくもそのコンピュータが大丈夫と弾き出した池の上の氷はあまりにも脆く砕け散っていった。
パヴェウの最後が一番最悪のシナリオである「死」という形で幕を下ろしてしまった。パヴェウの死後のシーンではパヴェウの生前に父がパヴェウに説いた人の死後は思い出であるという彼の言葉通りに生前の元気なパヴェウの姿が思い出されるような演出となっていた。
パヴェウの死後時間が経ってから、クシシュトフがようやく目前に現れた現実を受け入れたシーンでは、どこにもやり場のない、どうしようもない彼の気持ちが全面に溢れ出ていた。舞台上の演出では、アパートに見立てられたセットに対して思いっきり気持ちをぶつける演技だったが、その際に壁際にかかっていた装飾は完全に外れて落下することなく空中に止まった。それはどこか父にとって、亡くなったパヴェウのことは完全に飲み込めず、また忘れることのできないものとして一生ぶら下がり続けることであるように表現されているのではないかと感じた。

2.デカローグ3-あるクリスマス・イヴに関する物語

(0)前書き

クリスマス・イヴ。妻子とともにイヴを過ごすべく、タクシー運転手のヤヌシュが帰宅する。子供たちの為にサンタクロースの役を演じたりと仲睦まじい家族の時間を過ごすが、その夜遅くヤヌシュの自宅に元恋人の女性エヴァが現れ、ヤヌシュに失踪した夫を探してほしいと訴える……。
(デカローグ公式プログラムより引用)

(1)序盤

舞台は幸せなクリスマスイヴの日の夜から始まる。
子どもたちにとっては、一年の最後を前に訪れる夢のようなイベントだ。
一家の夫と思われる人物がサンタクロースに扮して、自分の家に訪れて子どもたちにサンタさんとして家族サービスを行うシーンからスタートする。
夜遅くまで起きてサンタさんが来ることを心待ちにしていた子どもたち。子どもたちの笑顔を見届け、寝かしつけた後に訪れる束の間の夫婦の時間。その男(ヤヌシュ)に取っては本当に幸せの時間が流れていた。一通りのシーンが幕が変わり、主人公は妻と娘、息子、そして赤ちゃんの5人を支える男になる。家族を支えつつ、子どもたちのためにサンタさんにもなるこの男は、本当に一家を支える大黒柱であった。
そんな幸せいっぱいの男のもとに、元恋人のエヴァが訪れる。
幸せいっぱいのヤヌシュにとっては、最悪の来客である。「ここに何をしにきた?」ヤヌシュの問いかけに対して、エヴァは場所のみを言って去ろうとする。しかし、ヤヌシュも根が実直な人間なのだろう。家族がいて、子どもたちも寝静まり、今からが妻と過ごす貴重なクリスマスイヴの時間だということを理解しつつも、エヴァが失踪したと言い残した彼女の夫を一緒に探そうとする。

(2)中盤

エヴァの夫が行きそうな場所や、クリスマスイヴの日に人が来そうな場所はどこかということを考えつつ、救急病院に運び込まれた人間が誰なのかということをヒントにしながら、街中を探していく。
そんな中、エヴァはヤヌシュに対して自分たちが恋人だった時のあれこれを突きつける。ヤヌシュにとってそれらは終わったことであったが、エヴァとしては解消しきれていない問題だったのだろう。過去を振り返ってみて溢れるエヴァからヤヌシュへの想い、それに対して事実を伝えようとするヤヌシュ。失踪したというエヴァの夫を一緒に探しつつもどこかその時間は、別れてから今までの間に生まれたもうどうしようもできない・取り返しのつかない時間を表現していたように感じた。
エヴァにとっては、孤独というものがあまりにも怖かったのではないだろうか。それがクリスマスイヴという、家族や恋人、自分以外の誰かと過ごすことが色濃く認識される日に改めて浮き彫りになってしまったのではないかと感じた。誰かの幸せが時には自分にとって、残酷な自分自身の状況の裏返しに見えてしまうのだと思う。
実際の演出では、失踪したとエヴァが言い張る彼女の夫を探しているときも、ところどころで「死」を選択するような場面があった。
結局2人とも死ぬことはなかったが、彼女にとって孤独を消し去る唯一の方法が誰かとの「死」だったのかもしれない。
なぜ自分はこんなにも苦しい・大変な状態なのに、自分以外のみんなは笑って幸せな時間を過ごしているのだろうと。こんな風に彼女は感じていたのではないだろうか。

(3)終盤

エヴァにとってのヤヌシュ。それは恋人の時だった彼女にとって、大事な人であったと同時に、別れて時間が経過した今、その昔に愛した人の隣にいるのは自分ではなく別の誰かだったわけである。受け入れなくてはいけないが受け入れ難いなんとももどかしい現実だったように感じた。
そんなエヴァにとっての解決策は、自分の夫が急にいなくなったという嘘をつくことで、幸せな家庭を持つヤヌシュの時間を引き裂くことだったのかもしれない。孤独で惨めな自分のそばには、自分のことをよく知る元恋人がいてほしかったのかもしれない。
実直なヤヌシュが自分のために東奔西走する姿を間近で見ることにより、自分の中にある寂しさが埋まることを期待し、そこから得られる幸福感を求めていたのではないだろうか。
物語の一番最後で、エヴァ自身の口から夫の失踪等は起きていないことが告げられる。彼女にとって、別れてしまったヤヌシュは自分の心を埋めてくれる大きな存在であると同時に、彼の行動そのものが彼女を正気に戻したのかもしれない。本当に最後、これからもう二度と会わない。もう近くに姿を見せない。この約束を最後にこのお話は幕を閉じる。

3.デカローグ1と3の緩やかなつながり

デカローグは、ワルシャワのとある団地に住む人々を描いた十篇の連作集である。それぞれがもちろん独立したお話ではあるものの、緩やかに各ストーリーは繋がっているのである。この繋がりを見つけることは、間違い探しのような「あ!!」という感覚をもたらしてくれるとともに、独立しているそれぞれのお話を優しく結びつけてくれる。この柔らかな結びつきが全体に繋がった時に十篇の連作集であることが再び理解できるような気がする。

今回のデカローグ1と3では、デカローグ3-あるクリスマス・イヴに関する物語の冒頭にて緩やかなつながりを感じ取れる。
この冒頭のシーンでは、デカローグ1で登場したクシシュトフが通り過ぎ、サンタクロースに扮したヤヌシュと挨拶を交わしている。
「メリークリスマス」というたった一言ではあるが、両者にとっての意味合いは真逆であった。片方(ヤヌシュ)にとっては、家族と過ごす幸せいっぱいの「メリークリスマス」であり、もう一方(クシシュトフ)にとっては、最愛の息子を亡くした直後で失意のどん底の中現実を突きつけられるあまりにも残酷な「メリークリスマス」であった。

4.感想

デカローグ1と3を鑑賞してみて感じたことは、本当に1話約2時間があまりにもあっという間であるということ。序盤のイントロ、中盤での物語全体の動き、終盤で明かされるタネあかしであったり衝撃的な結末。そのどれもがこのお話を観にきて心の底から良かったなと思わせてくれるもののように感じた。
感想は気付けば長くなってしまうので、なるべく簡潔に。
・デカローグ1
幕が降りた瞬間の喪失感が本当にすごかった。人間誰しも生きていて幾つかの選択をすることが山ほどあると思う。その選択に大小はあるが常に正しい決断ができるとは限らない。間違いの選択をした時に、それらは後悔や自責の念をかき立てることが最も多いと思うが、多くの場合はそれを取り戻すために努力をしたり、一度忘れて次のステップへ進もうと前向きなパワーに変えて人はみな歩き出そうとする。しかし、それが唯一叶わないのが今回のお話のような最後の結末が「死」をもって目の前に現れる時だと思った。
いくら後悔してももう取り戻すことができない過去。しかもそれを乗り越えようとするにはあまりにも大きなエネルギーが必要である上に、乗り越えたその先には、やはり受け入れなければならない巨大な何かが広がるのである。今回のお話でも、クシシュトフとパヴェウは本当に幸せな日々を送っていた。物事の何もかもがきちんとレールの上にのって進んでいく。しかし、最後に待ち受けていたのはあまりにも残酷でどうすることもできない結末だった。
本当に何がきっかけで、いやきっかけなどなく唐突に自分の目の前で起こっている事実が良い方向にも悪い方向にも転ぶのかもしれない。だからこそ1日を大切に過ごさなくてはいけないと感じた。社会人になってから直接会うことが一段と減ってしまった家族も大事にしないといけないとも感じた。

・デカローグ3
このお話は本当に「人」そのものを浮き上がらせるお話だと感じた。
ことわざにも「隣の芝生は青く見える」というのがあるように、自分と他人を比較することで不思議と感じる自分への劣等感や他人への羨望感。これが本当にリアルに描かれていたなと。ある意味人間の本質的な部分であるため、お芝居とはいえどなぜか自分でも納得感をもってエヴァを見ることができた。
エヴァと自分を比較した時に、すぐに連絡できる友達がいて、LINEを送信したら秒速で返信してくれる先輩がいて、リアルな関係のほかにも様々なつながりから関係性ができた人がいることを考えると、本当に人脈の部分で恵まれた人生だと感じつつ、改めてこの関係を持続させないといけないなと感じた。

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