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綾野剛の演技に感じた「本当」への渇望〜なぜわれわれは『MIU404』に熱狂したのか

 2020年、新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、多くの人が“ステイホーム”を余儀なくされた。私自身も仕事が在宅勤務に移行し、楽しみにしていたイベントが軒並み中止になり、友人を遊びに誘うのも躊躇われる状況下で特に春から夏にかけては家に引きこもる毎日を過ごした。そんな日々を過ごす中で、いつしか家を出る事自体がおっくうにもなってきた頃に放送開始されたのが『MIU404』だった。

 前作から更にパワーアップした俳優同士のコミカルとも形容できる熱演が注目を集め驚異の高視聴率を叩き出した日曜劇場『半沢直樹』、「逃げ恥」や「恋つづ」などのラブ・コメディで安定した人気を誇り続けるTBS火ドラ枠の『私の家政婦ナギサさん』といった「売れ線」ドラマがライナップされる中、『MIU404』は刑事ドラマのバディものという人気ジャンルであるものの放送前の期待の声はあまり大きくなかったような覚えがある(単に私がテレビドラマの情報が得られるような環境を積極的に構築していないせいもあるだろうが)。結果的に2020年春夏クールはまさにTBSドラマの独り勝ちと言えるほど、前述したドラマのいずれもが高視聴率を誇り、大人気ドラマの称号を欲しいままにした。 『MIU404』は何故、他のTBSドラマと同様に多くの人を惹きつけたのだろうか。

 24時間勤務で初動捜査を主業務とする機動捜査隊をテーマにした“ノンストップ「機捜」エンターテインメント“というコピーにふさわしいスピード感でテンポの良いストーリー展開、製作陣の社会の不条理に真摯に向き合いながらもエンタテインメントとしての面白さを突き詰める姿勢、魅力的なキャラクター造形、そして作品が生み出す感動を何倍にも高めた米津玄師の『感電』など。作品の魅力は挙げればキリがない。

 だが私は、『MIU404』が生んだ猛烈な熱狂の中には視聴者が綾野剛の芝居にコロナ禍で失っていたものを見出したからという要素が多分に含まれているのではないだろうか……と考えている。少なくとも、私にとってはそうだった。

リアリティの巧者 綾野剛

 綾野剛といえば「憑依型俳優」と評されることが多い印象だ。まるで役が憑依したかのように役に成りきる能力が高いために見た目から仕草までもがとても綾野剛その人には見えず、綾野剛の存在を感じさせない演技が素晴らしいという意味合いと解釈できる。

 実際、綾野剛は過去に受けたいくつかのインタビューで様々な言い回しを用いて自我を排除し、身も心も役に成りきる方法で演じている、と語っている。

 ところで、私は「リアリティ」と「リアル」は別物であると考えている。あくまでもリアルに「見える」のがリアリティだ。演技はいわば嘘であり、そこに真実性はあれど真実はない。

 これを踏まえると、綾野剛というリアルを殺し、役のリアルを感じさせる演技をする綾野剛は、まさにリアリティを生み出す巧者と言えるだろう。

伊吹藍に確かに感じた綾野剛の魂

 一方『MIU404』での綾野剛の演技はというと、伊吹藍でありながらもその肉体の中に綾野剛の自我もまた存在するように感じられた。綾野剛が作り出した『伊吹藍』はどこか「リアリティ」以上に生っぽいのだ。放送中に発売された雑誌のインタビューにしても、伊吹藍という虚構の存在が持ちうるリアルを生み出している、というよりは、綾野剛の延長線上に伊吹藍がいて、伊吹藍の延長線上にもまた綾野剛がいるような、両者の間に不思議な連続性が感じられた。

 演劇を観ていると、戯曲と役者の人生がオーバーラップし、役の感情と役者の感情がシンクロナイズした場面を目撃することがある。「ハマり役」と言ってしまえばそれまでなのかもしれないが、こんな言葉ひとつでは言い表せないほどに役と役者自身に深い結び付きを感じる瞬間を私は確かに板の上に何度も見とめてきた。そんな瞬間を目撃した時、人は虚構の世界に理想を求めながらも虚構の中の現実ひいては「リアル」を見た時に感動を覚えるのではないかといつも考える。

 綾野剛の伊吹藍にもこれと似たようなものを感じた。演劇のように必ずしもストーリーを順に追って演技を出来るわけでもなく、カットごとの撮影もあるであろうドラマ撮影で、ここまで役との繋がりを持ち続けながら伊吹藍を演じられた綾野剛には度肝を抜かれた。素晴らしい演技だった。

綾野剛が剥き出しにした「本当」の激情に救われたあの日のわたしたち

 仕事に、遊びに、観劇のための遠征に……と家を空けることが多かったから選んだ狭いワンルームに約1週間分の食料を買い込んで篭る日々も、ニュース番組で繰り返し流れる政治家の言葉も、ましてやゲームの中の架空の島も、全てが同列に現実味がないように感じながら2020年の夏を過ごしていた。もちろん過酷な状況下で仕事に忙殺される毎日を送ったエッセンシャルワーカーの方々も多いのだろうが、これはこれで一つのリアルであるし、何にせよ今までに経験したことのない特殊な状況に現実感を感じられなかった方は多いのではないだろうか。

 何もかもがリアルに感じられない虚構のような現実の中で踠き苦しみ生きながらえることだけを考えながら、本当の言葉、本当に大事にするべきもの、本当の繋がりを求めた世の中に突如現れた虚構の存在・伊吹藍は、彼が持つ「リアル」を武器に彼が生きる場所であるはずの虚構を破壊し続けるように物語の中を躍動し続けた。そんな彼が、彼だからこそ、『MIU404』本編ラストシーンで虚構だからこそ伝えられる希望をお土産にわれわれに会いに来てくれたような感覚を覚えたのだろう。

 伊吹藍はその「リアリティ」以上の生の質感を持って『MIU404』のテーマを伝えてくれた。これは、ただそのシーンだけの脚本・演出の持つパワーだけでなく、彼自身が積み上げてきた破壊の歴史の結実と捉えざるを得ない。

 『MIU404』放送終了後、2020年11月29日に放送された風野又二朗「風をあつめて」では、綾野剛が以下のように語っていた。

役作りって自分を捨てて……役が主役で自分は裏方っていう感覚がずっとあったからどこまでも綾野剛を捨てて役100%でやってきたんだけど、でも1年半前くらいから自分を織り込んでいく……もっと言ったら、役と綾野剛のハイブリットにするにはどうしたら良いか。時には綾野剛が90くらいでも良いと。時に役が100でも良いと。そうやって感情を作っていく上で、ちゃんと共存するってことから逃げないようにしようってやって……『楽園』ぐらいから、『ハゲタカ』っていう作品が終わってから、ちょっと自分を織り込んでいこう、ちゃんと。で、見つめ直して、『影裏』だとか『楽園』だとか『閉鎖病棟』とか、全部突飛だったんだけど。突飛というか……相当パワーがある作品だったけど、そこで自分を少しでも投下させるというか。自分にも寄り添うために、僕自身が。その完成体が『伊吹』。

 これを聴いて、綾野剛が綾野剛自身に寄り添うために表現されたと言ってもいい『伊吹藍』の生っぽさが、結果的に視聴者の心に寄り添う形になったと言っても過言ではないように感じた。

 悩み、傷付き、試行錯誤しながら生きる身体の中に、綾野剛自身の人生をも宿し続けた伊吹藍に、綾野剛自身が燃やした「本当」の激情を感じたからこそ、フィクショナルなこの時代を生きるわれわれは、強烈に伊吹藍と『MIU404』に惹かれたのではないのだろうか。

 時代や社会の流れに翻弄されるうちに疲弊してしまった、まだ伊吹藍に出逢っていないあなたへ。『MIU404』の中で燃え続ける太陽のような伊吹藍から失ってしまったものを感受してみませんか。その激情は「本当」の質感を持って、あなたに前を向く力をくれるかもしれないから。

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