餃子へ。
お昼時、飯を食うためにDiscordから落ちる。
今日は何を食べようか、どうせいつものようにパスタかチャーハンだろうと考えていると、冷凍庫に餃子があることを思い出した。
普段は買わない冷凍食品、自分の中の何かが限界になって自炊が出来なくなった時、その時だけ俺は冷凍の餃子を食う。
別に餃子が好きなわけじゃない、王将でも天津チャーハンしか頼まないしセットで餃子を付けることもない。
俺は餃子に対して何も思っていない。
それでも、本当につらい時にはいつも、餃子は俺のそばに居た。
今日は餃子を食うような気分の日じゃない、そう思っていたが何故か体は冷凍庫からパッケージを出していた。
冷凍餃子のパッケージ、中国の食い物のはずだが何故か富士山と日の出が描かれている。
「断然、具がうまい!」
この餃子に対して「具がうまいな~~~」なんて思ったことはない、具だけをアピールしているのは皮に自信がないのか、そもそも餃子を食べたときに具が美味いなんて思うのだろうか。
ただ、油・水なしで焼けてくれる餃子は味以外で心の何かを満たしてくれる。
鉄フライパンに油をひく、油なしとは言うがそれはテフロンされている場合に限る、油無しの鉄フライパンは引っ付いて使い物にならない。
だから商品説明に「油・水なしで焼ける!(テフロン加工されたフライパンに限ります)」と書くべきなのかもしれない、だが一般人は自分が使っているフライパンがテフロン加工されているのかなど気にしていない、あらゆる不安要素を排除して売るべき冷凍食品という製品に消費者が混乱するようなことを書くべきではないのだ。
だから、このことを知っているのは世界で自分だけでいい。
鉄フライパンに餃子を並べて火をつける。
「火を付けろ、並べた餃子の全てに。」
アーマードコア6と全く同じキャッチコピーを頭に思い浮かべている間も餃子は焼かれている。
この時、火の強さは中火と弱火の間ぐらい、むしろ弱火寄りでいい。
鉄フライパンは保温力が高いので気を抜いて火力を上げるとすぐ焦げ付く。
はっきり言って冷凍餃子を焼くときに鉄フライパンを使う必要は全くない。
だが、俺はあらゆる料理でこの1つのフライパンを愛用しているし、俺の全てが限界になる原因にもなっているがやめるつもりもない。
面倒な鉄フライパンを使い続ける、それが俺という人間だ。
そんなことを考えているといい感じに餃子が焼けてくる。
少し焦げているぐらいの焼き加減が好きなので、好く、焼く。
皿に餃子を盛って、小皿に醤油と酢、ラー油を垂らす。
付属のたれは使わない、それも俺という人間を構成する一つの要素だ。
餃子を口に入れる、がそれに対して俺は何も感じない。
美味しいだとか満腹だとかそういう食事に求めるべき欲求の満たされは一切無い。
冷凍餃子は少ないし、美味しくない。
全ての餃子を食べ終わり、空になった皿を少し眺めてコップに注がれた水道水を飲む、水の方がよっぽど美味い。
餃子に対しての評価が改められることは今日もなかった。
俺は餃子に対して何も思っていない。
そこで目が覚めた、時刻は六時でアラームが鳴っている、いつも通りの朝、今日は月曜日だ。
シャワーを浴びて、朝食を摂る為の準備を始める。
ふと気になったので冷凍庫を覗く。
だが、そこに餃子の姿は無かった。
俺は泣いた。
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