留学中に考えた、人の善悪の判断軸について

こんにちは!まろです。

今回は、留学中に考えた人の善悪の判断軸についてです。

そして、「@otona_no_kyouyou」(大人の教養)というインスタアカウントで発信を始めたきっかけについてのお話でもあります。

留学中にいろんな文化や価値観に触れましたが、そこで感じたこと、考えたことを話したいと思います。

その中でも答えが出なく、今も考えている、人の善悪の判断軸についてお話したいと思います。ぜひ皆さんも一緒に考えるきっかけになると嬉しいです。


私が人の善悪の判断軸について考えたきっかけは、何気ない日常からでした。

私の滞在した街は、ポーランドで5番目くらいに大きい街で、日本でいう仙台とか名古屋とかの地方の大きな都市です。

そこで私はほぼ毎日のように物乞いをする人やホームレスをたくさん見ました。田舎育ちの私はあまり見慣れておらず、そういう方々に話しかけられ、物乞いをされると、「怖い、嫌だ」と思っていました。

ある日、私はある友達と一緒に街に遊びに行きました。するとその子は、そういった路上生活者を見かければ、必ず彼らにお金をあげていました。

その子は信仰心の篤いキリスト教徒でした。

その子にとってはそれがいい行いであり、当たり前の行動でした。でも私は同じ状況にいるのに、怖い、嫌だと感じてしまっていたのです。

この時私は、何が善くて、正しい行動なのかわかりませんでしたが、何か自分が恥ずかしいような気持ちになりました。


その後、物事の善悪の判断軸について考えました。

その友達のその時の善悪の判断軸は、キリスト教の教えにあったのだと思います。絶対的な善悪の基準がそこにあり、それをもとに行動する。

宗教とは、人に善悪の判断軸を与えてくれるものなのだと理解しました。


では私は、そのとき何を信じて、どんな行動をすればよかったのか。自分の中に確固たる軸がなかったのです。

普段の私は何を物事の善悪の判断軸にしていたのだろう。

親や先生の教え、社会の目や常識。

そういったものが私の善悪の判断軸だったのではないか。

もちろん自分で考えて行動することもありますが、大半はこれらによって判断していたのではないか。

無宗教の人が多い日本では、こういった社会の目が宗教の判断軸の代わりになっているのではないか。そんな風に思えました。


これからは、世界でも無宗教者が増えたり、数ある宗教の中から自分が信じたいものを選べる時代です。

そんな中で、自分は何を信じ、判断軸にしたいのか。無宗教でもどんな軸を自分の中につくっていくのか。一人ひとりが考える必要があるのだと思います。

グローバル化した現代では、これまでのように時代や国に決められた宗教やルール、価値基準に沿って行動していればいいわけではありません。

学校や家のルールも同じです。時代によっても、奴隷や殺人が当たり前のときもあり、判断軸は全然違います。

宗教だけでなく、差別や政治など、様々な問題がある中で、自分の軸を持ち、判断していかなければいけない時代なんだと感じます。


別のトルコ出身の友達は、中学生のときに世界のメジャーな宗教について勉強をし、自分が何を信じたいのかを考え、無宗教を選んだと言っていました。家族も宗教がバラバラだそうです。

それを思い出し、私も自分の軸をつくるために、勉強しようと思うようになりました。

そして今は論語や仏教、キリスト教などの簡単な解説本を読み、「@otona_no_kyouyou](大人の教養)というアカウントで本の内容をインスタで発信しています。

今の日本人は、宗教や古典を勉強する機会が少ないと思います。

このアカウントが、そんな方々が自分の軸を考え、つくっていく助けに少しでもなったら幸いです。

興味のある方はぜひインスタでフォローしてみてください。(アカウント名は@otona_no_kyouyouで、黄緑の背景に黒で大人の教養と書いてあるアイコンです)

友達に発信を始めたきっかけを聞かれ、根本にある思いを思い出したので記事にしてみました。


最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

ぜひコメントであなたの考えや感想を聞かせてください!いろんな人の意見や考えに触れることによって、考えもつくられていきます。みなさんの考えから勉強させてください!

ではまた。



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