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おもいやりの正解は、あるようでない。

「つかれた、すわりたいよ、ママー」

先日、某SNSで気になる書き込みを見た。
私が読んだ内容の一部と、考えられる類似シチュエーションを織り交ぜ、今回のテーマとしたい。

こどもに席を譲ることは優しさとなるか否か

ことの発端は、座席満員のバスに親子が乗ってきたところからだ。
車内に乗り込むや否や「つかれた、すわりたいよ、ママー」とこどもが駄々をこねる。
それに対しての母親の発言は「あいてないから座れないね」と、いう対応。
こどもはますます「すわりたいー」と、駄々をこね、騒がしい状態となる。
こどもが駄々をこねている横に座っていた女性(SNS投稿者)の年齢は定かではないが、その日酷い生理痛で座っていたということなので働く世代であることが推察できた。
女性は「可哀想だけれど今日の自分は痛みと貧血で辛いからごめんなさい」と、心の中で思って譲ることをしなかったそうだ。
しかし、目の前で駄々をこねられる以上に心に引っ掛かることが起きる。
降車の際、どこからか「こどもに座らせてやればいいのによ」と言われたのが聞こえたそうで、SNSに気持ちを吐露するに至ったという流れ。

こどもだからとわがままを言ってもよいのか

こんな、どこにでも起こりうるシチュエーションの中から、様々な思いが巡り始める。
一番始めに疑問が湧くのはこどもの母親の言葉。
「あいてないから座れない」
まぁ、事実だけれど、この言い方は工夫の余地があったように思う。
初めから座っていた人に、妙な罪悪感をもたらす言い方じゃないか。
きっと、このお子さんはこうして騒げば誰かが譲ってくれるということを分かってるのだろう。
捻くれた見方をすれば、ひょっとしたら、無意識レベルで親が子にこのような態度をとらせているのだろう。
この様子だと、この親子関係はバスの中だけでなく日常にも通じるのではと想像した。
「お菓子食べたいよ」騒がれて、面倒臭いからとお菓子を与えるというような。
あくまでも推測の域を出ないが「どうしてダメなのか」をきちんと伝えられていないのだろう。
単に、我慢をさせて抑圧するのではない。
ダメなことを理解させるのと、我慢させるのは違うという重要点を見出したように思う。
「子育てをしたこともないくせに」「そんな簡単なことじゃない」というご意見はあるかもしれない。
私にとってそれは致し方ないことであるが……。
んー、たぶん、私に子がいたらこの場面において、そもそも騒がせないだろうなという爆弾を投下しておこう。
この親子はバスに乗る以前から、そしてバスの中でコミュニケーションを取っていたのだろうか。
親子のコミュニケーションで満たされていれば、別の意味で騒がしいかもしれないが、キャキャキャと笑ってたのではないかなと思う。
母親がスマホ片手に「座れないねぇ」なんて、上の空で答えている様子の方が浮かんでしまうのだ。
そんなのこどもは寂しいに決まってる。
仮に私に子がいたとして、バスのような密室空間こそコミュニケーションで子の気を紛らす方法を取りたい。
そして自分の子にどなたかが席を譲ってくださったとして、私であれば子の目の前できちんとお礼を言うし、子にも言わせるだろう。
自宅に戻ってから、今日の出来事を振り返るにあたり「あの人はもしかしたらとっても疲れていたかもしれないのに、あなたに席を譲ってくれたのよ。当たり前のことではありません。神様にお礼をしなさいね」とよく言って聞かせるでしょう。
それでも騒ぐのがこどもなので、子育てに悩みはつきものなんでしょうし、その上で産み育てる責務を日々果たされている方々には頭が上がらないのですが……。

みんな、疲れてる。

これは、私自身疲れて座ってるときも、座りたいなと思って立っているときも思うようにしてる。
譲って欲しそうな気配(それが当たり前でしょうという気配)をぷんぷん漂わせている人が来たとき、元気ならもちろん譲るのだが、投稿者同様に事情があって座っていたいときももちろんある。
そんなとき「みんな疲れてますよねー」と念じる。
冷たいかもしれないけれど、倒れるかもしれないと座っているのに、譲って倒れては本末転倒。
若くたって色々事情がある。
その光景を後ろから目撃してたとしても同様に思う。
座りたいなと思って立っている自分も、周りから見たら、譲って欲しそうな気配(それが当たり前でしょうという気配)をぷんぷん漂わせているのだろう。
だから譲ってはもらえない。
そう考えて割り切る。
だけどね、明らかに顔色おかしくなってる人とかにはやっぱり譲ってあげたい。
そういう人は譲って欲しい気配も消してひっそりと具合悪そうにしてるんだ。
だから、見つけたら自分が体調悪くても差し出したい。

言うだけ言って自分は棚上げする人

「かわってやればいいのに」
はぁ? もうこれは何様案件。
事情があって座っているのだろうという心遣いもない人なのかな。
あるいは、こういう人こそ騒ぐこどもに適切ではないタイミングでなんらかの施しを与える人かもしれない。
それでいて自分は譲る気もない。
もし、事情があって譲れないのだとしたら「かわってやればいいのに」という発言は無神経。

おもいやりとか、やさしさとかに正解はある?

可愛いからとか可哀想だからとかで、何かを与えることが、思いやりとか優しさとか、それが愛だとかって思うのは間違っている。
一人一人が特別な存在だとよく言うけれど、それって結果的にみんなが平等ってこと。
こどもだからとかおとなだからとか、おとこだからとかおんなだからとか、精神上はみな平等。
だけれど、体力や体格、知能の面でどうしたって差は出てしまう。
この部分を、埋め合わせて補い合い、理解できるようになることが思いやりや優しさじゃないかなと思う。

こどもだから分からないだろうではない。
今回のことなら、もちろん個人差はあるとは思うが、きっと向き合って話せばこどもも理解できることだと思うし、この時期に理解させるのがこの先の人生に繋がることなのかなと感じた。
人の子だから言えなかったかもしれないが、投稿者さんが言ってもよかったのかもしれない。
「ごめんね、今日はかわってあげられない」「もうすぐ降りるから、それまで頑張ってね」って。
(間違っても「お腹が痛いからかわれないよ」と言ってはダメ。「お腹いたい」って言えばかわってもらえるにすり替わってしまうから。)
降りるときに「どうぞ、ありがとうね」って言っていたら、こどもも頑張って良かった、嬉しいって思ったかもしれないし、人を思いやる優しい気持ちを芽生えさせたかもしれない。







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