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“青春”とは挑戦・・・生涯かけて恋を追いかけるのも彼を追いかけるのも仕事を追いかけるのも・・・すべてが青春

「青春とは人生の或る期間を言うのではなく、
心の様相を言うのだ。
優れた想像力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、
安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ」
引用:『青春とは、心の若さである。』
(角川文庫/サミュエル・ウルマン著)

最悪な第一印象からの恋

小さいころから年上の男性が好きだった。

知らないことを教えてくれる人であったり、
自分にできないことができたりと、
「この人すごいな」が好きに変わるタイプ。

となると、先生に恋する学生時代となり、
職員室前での待ち伏せ、無理矢理授業のわからないところを作る、
ほかの先生に相談してみるなどという
同世代たちの経験する青春の甘酸っぱい恋とはかけ離れた恋愛をしていた。

そんな私が大学生になったころ、恋をした人がいた。
アルバイト先に私より後から入ってきた、8歳年上のフリーターの男性だ。

そのころ、私は大学で演劇を学んでいてそれに準ずる仕事をしていた。
そのため、アルバイトをするにもオーディションや舞台の稽古を
優先できる融通の効くアルバイトをしなければならず、
夜勤やショートタイムなど自由なシフトを組める場所でアルバイトしていた。

だからこそ、そこには自分と似た境遇の人たちが集まっており、
話す内容は自分たちの好きなことばかりで居心地がよかった。
そのなかに入ってきたのが彼だった。

紹介で入ったという彼は、特に同じ境遇ではないただのフリーター。
なにか志があるわけでもなく、私から見たら別の世界の人だった。

ここにいなくちゃいけない理由もないのに、フリーターをするなんて。
そして無愛想。
夢を追いかける私たちを馬鹿にしているように見える
その態度に第一印象は最悪であった。

そんな彼と初めてまともに話したのは、ある日の夜勤後。
タイムカードを切るまでの少しの時間だった。

彼は私が大学で演劇を学んでいることを知っていて、
ある俳優の演技についての話題を振ってきた。
話してみると映画好きで俳優や映画作品に詳しく知識も豊富。

第一印象とは裏腹に、大学生の私としっかり向き合う姿勢で話をしてくれた。
タイムカードを切ってからも話は続き、
1時間ほど話した後「また明日ね」と別れた。

それから夜勤が終わるたび、ほかのアルバイトたちと
彼が話しているところに混ぜてもらい、
始発を待つ時間を楽しみにするようになった。

そのころから彼に対する印象はうなぎ上りで、
シフトが被るのをチェックするようになっていた。
話すたびに彼の印象は変わり、
そこで働き始めた理由やいまの彼について話を
たくさん聞くうちに、私は彼を好きになっていたのだった。

私と恋愛してくれませんか?

彼は、「一生恋愛をすることはない」と私に話していた。

フリーター生活に入る前に仕事で鬱になり、
恋愛においては結婚しようとしていた人に浮気されて破談。
今後の人生において夢中になることや誰かを愛することを諦めていたのだ。

彼の状況は言葉にするとなにもかもを失った悲劇的な男性のようだが、
彼はそれを他人事のように語り悲しい表情などはひとつも見せなかった。

夢を追って輝かしい未来しか想像しなかった私にとって、
そんな彼はとても強い人間として映った。
自分がダメだということや弱いということを卑下するのではなく、
認めている。

認めたうえで、これが自分なのだと話す彼は私の価値観を変えた。
夢を追うことがすべて正しいのではない。
一日一日を丁寧に生きることや、繰り返される日々を
己で楽しくすることの難しさと尊さを彼は知っていた。

なんてことない会話を誰よりも楽しくするし、
同じ映画の感想を話すにも人とは違う想像力を働かせる。
どうってことなく見えることにも夢中になり、突き詰めて調べものをする。

「俺にはこんな夢があるんだ」
「僕はこんなことができてね」
世の中に数多存在しているような自分を強く大きく
見せようとする男性よりも、正直で自分の弱さを認め自分の目で周りを
面白く見ようとする彼が心底男らしく魅力的だった。
「私と恋愛してくれませんか?」
そう告白したのは1年後。
彼がそのアルバイト先を辞め、就職するタイミングであった。
こうして私たちは付き合うこととなった。

3カ月で終わったお付き合い。それでも好きな理由

がしかし、交際期間は3カ月で終了することとなる。

展開の早さに追いつけないそこのあなた。
恋は続くよどこまでも、なのでここからが本当の始まりなのでご安心を。

付き合い始めたというものの、そのころの私は夢みがちな
女子大生で彼は再就職をしたアラサー。
私が彼の気持ちをわかるわけもなく、彼が私に歩み寄る余裕もない。

「別れてくれないかな」と彼に言われたとき、
口から落ちる言葉と頭の中に渦巻く言葉は「なんで」の三文字しかなかった。
純粋にわからなかったのだ。
彼に合わせられると思っていたのだ。

いま考えれば社会人の大変さ、ましてや再就職をした人を
支えることなど到底できるはずもないのだが、
そのときは悲劇のヒロインで、泣いても泣いても涙は止まらず、
ひどい彼に振り回された私になることで慰めをもらっていた。

けれどその反面、私は振られていて、
かつさまざまな人にひどい人だ!と話しているのに
「彼のよさを彼自身にわからせるのは私しかいない!」という
根拠のない強い自信を持っていた。
それほど心底彼に惚れていた。

別れてからも、彼と連絡をとってはわかりあえず傷付き、
泣き喚いて、それでも彼のよさは私にしかわからないんだと
彼を嫌いになれない。
これを何回も繰り返した。

最低で自暴自棄に思える彼の行動に傷ついたり、
振り向いてもらおうと嘘をついて愛想を尽かされたりもした。
それでもまた彼を思い出すのは、
会ったり会わなくなったりを繰り返すたびに、
私が知らなかった彼の本当のよさを知ることになるからだった。

青になる、がしっくりくる。彼との関係

彼と連絡を取らなくなるたびに
「好きと依存の違い」や
「都合のいい女から脱出する方法」など検索したり、
そんな経験のある人に話を聞いたりした。

けれど、どれもどこか違う気がした。
彼に対して好きという感情よりも違う何かが渦巻いている気がしていたし、
振り回されているだけではなかったからだ。

彼と関わっているときの自分を思い出してみたとき、
しっくりくる状態が「青になる」だった。
興奮状態になったり、何かに猪突猛進したりしているのではなく、
体の真ん中をひんやりとした風がスーッと通っていく感覚。

久しぶりに彼に会ってみると、
彼に会っていなかった時間が夢のように感じるのだ。

このことに気づき出したのが、ちょうどコロナ禍であった。
新型コロナウイルスによって国際交流が制限される直前、
就職を機に国へ帰ったベトナム人の友人たちに会うためにベトナムへと飛んだ。

旅行というよりは現地滞在。
モーテルに3日間、彼らの実家に3日間泊まり、
観光というよりは現地の生活を体験するものだった。

娯楽に溢れた日本と違い、
衣食住をするために生きている彼らとの数日間は、
私の生き方を考え直すきっかけであった。

私のやりたいことや志していたものは、
演劇や映画などの作品づくりや娯楽に関係するものを案件としてこなし、
それがひとつの山だとしてずっと登山を続けているような働き方。

その登山が人生のメインだとしたら、それ以外の時間は余り物。
生活のために働く時間が衣食住とは関係ない場所にあった。

でも、ベトナムに行ったとき、私はあまりものだと思っていた
時間に大きく魅了された。
食事をみんなで囲み、働き誰かと話し、夜には寝る。

その一瞬一瞬がどれだけ尊いものなのか、
本当はとても難しいことなのかを知った。
これと同じことを、日本に帰ってきて感じることとなる。
それはコロナ禍だ。

緊急事態宣言により、不要不急だとされるものが制限された。
私の人生における登山は、
不要不急だとされるものたちの大部分を占めていた。

そんなときに彼といることで気づいた。
それまでは、彼と会っているときの「青になる」感覚を、
好きなことに熱中できない悪い感覚だと思っていた。

でもそれは違った。
逆だと気づいた。

刹那的に生きることばかりに目が向いていたいままでとは違う、
ただ健康で暮らしていけることを尊く思ったとき、
彼に見ていた青い色は、炎の真ん中、
いちばん熱くて大切なところだったと気づいたのだ。

青く燃ゆる炎。私の青春は彼だった

私はそのことに気づいたとき、
彼に対する気持ちが変化した。

私が振り回されているのではなく、彼に気づかされていたのだ。
彼はずっとそれを教えていてくれたのだった。
私は与えていたのではなく与えられていたのだ。

彼に見ていたものは、
青く燃ゆる炎のように力強く惹きつけられる春だった。
周りの人間が燃えようと必死に赤くなる春を打ち消すほどの力強い青い春。
彼は私の青春そのものだ。

その彼はいま、私の婚約者である。
「ひどい人だ」と私の愚痴を聞いていた人たちは、
依存し引きずり流れのままに結婚すると思っているが、
彼との結婚は私にとって一生をかけて青春を生きるということだ。

彼と生きると決めたとき、私はわざと燃えることをやめられた。
刹那的な自分を生きることで青春を生きている気になるのではなく、
ただ繰り返される毎日を自分で変えようとする気持ちでいることが
青春なのだ。

優れた想像力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、
安易を振り捨てる冒険心、
そんな青く燃ゆる炎を持った彼と生きていく。
私はこれから先もずっと青春を生きるのだ。


長文の惚気話を読まされた感じ!

人は、こういう時に「騙された」と感じるのだろうか?
最大限にネタ記事の著者を擁護して〜青春という定義に
当てはまる自分の世界を探した結果なのかもしれないが
それが現代進行形の「惚気」だと自覚しないのだろうか?

自己肯定感が強いのだろうか?
とも思ったけど、文章を読む感じからはそれを感じない
さて、賢明なる読者の皆様方は、どうお感じなのだろうか?

定義とされた「青春」には概ね同意できる
そして筆者も今でも青春をやってる・・・と不思議な感じとともに
でも、生涯、青春を続けようと思ってる

夢があるから、いつまでも夢を追っかけられるのだろう
でも、それは青春期から夢を諦めなかったという結果だとも思う
だったら夢を諦め夢を失った者は二度と夢を持てないのか?
といえば、夢など誰でもいつでも持てるとも思う

ドンキホーテは人種なのか、心情なのか?
多分、心情なのだろう・・・
学生の時、世界中から集結したヒッピーの群れに混じり
インドを放浪したことがある
特別にインドに憧れたことなどない
世界から集まったヒッピーという世界に憧れた
7ヶ月ほど経った頃だろうか
「永遠の元気」を貰った・・・と身体が感じたことがある
この頃はインド贔屓になっていた
インドの精神文化の深さに心頭していたが
この元気は今でも健在、今でも持っている
インドの放浪は筆者の青春、今での青春が続いている
多分、永遠という時間の中で






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