『伝えるための準備学/古舘伊知郎著』を読んで
古舘伊知郎さんは天才だと思っていた。
次から次へとスピーディに滑らかに魔法のように言葉が出てくる。
独特の表現、言葉の組み合わせ、喋りの神様に選ばれし者なのだと思っていた。
ところが『伝えるための準備学』の、はや5ページにして、
天才じゃない宣言。
え、古舘さんが天才じゃないなら、いったい誰が天才なの?
じゃあどうやってあの実況は生まれたの?
それは「準備」なのだと。
この本には、なぜ「準備」をするようになったのかをはじめ、古舘さんがこれまでしてきた「準備」の数々が惜しげもなく書かれている。
ここまで書いていいの?
え、もったいないよ。
なかでも、F1実況のために準備した6ページにわたる手書きのメモ。
見た時に、うわーと声がでた。
これを見るだけでもこの本を買う価値がある。
出版元のひろのぶと株式会社・田中泰延社長が国宝出土と狂喜乱舞したのも納得。
細かい、細かくて私はよく見えなかったから、スマホで撮影して拡大して見た。
ここまで「準備」をするのか……。
ここに書きたい面白い表現がたくさん書かれている。
でも、書かない。
写真もあえて載せない。
これは、本を買った人だけが見られる「宝物」だから。
古館さんが言う「準備」とは、こういうことなのか。
いきなり空手チョップをくらい、卍固めまでされた。
降参。
そして、もっと驚くのは「準備したもの捨てる勇気」が必要だと。
こんなに準備したら、準備したことを誇りたくなる。
見て見てと見せたくなる。
でも、時にはそれを捨てろと言う。
うそん。
私が好きなのは、第5章の「深い焙煎の顔」の話。
準備は寄り道上等、何か気になることがあったら確かめないと気が済まない古館さんの性格を表しているエピソードだ。
無駄や不毛、寄り道、もしかしたら回り道も。
古館さんは毎日を音速では駆け抜けない。
よどみなくしゃべりながらもどこか泥くささがあり、心をぐっとつかまれるのは、この姿勢にあるのだと思った。
「思えば、あれも準備だったんだ」。
まさにそう感じることが、「伝えるための準備学」副読本、古舘伊知郎×田中泰延 特別対談に書かれている。
田中泰延さんは、30年ほど前に古館さんが出された『喋べらなければ負けだよ』の初版をずっと読んでいて、書いてあることを自分の血肉に考えにしてきたそうだ。
出版記念イベントでの泰延さんのいつもより緊張した様子、ものすごくうれしそうな表情には、そんな理由があったのだと思うと、胸がじーんとする。
30年かけて、準備とは思っていないけど、結果として準備になっていた想い・時間の集大成が本書『伝えるための準備学』なのだ。
瞬間は、準備によってつくられる。
準備で夢は叶わない。
しかし人生を創造することはできる。
「準備」は「努力」に似ている。
でも、古館さんが伝えたいのは、「努力」という抽象的なことではなく、「準備」という具体的なことなのだと思う。
だから、参考になる。
読み進めるうちに、そうはいっても、古館さんはやっぱり天才なのでは?という思いがぬぐい切れない。
あのF1のメモ、天才じゃないと書けないよ。
でも、それは違うと思わせてくれたのが、この本の最終252ページ、最後の3行だ。
準備、準備、また準備。
古館さんは、「準備」をしてきたから、古館さんになり、古館さんでいるのだ。
天才と疑ってごめんなさい。
この本を読むと、古館さんのイメージが変わる。
古館さんは天才じゃない。
天才じゃなく、稀代の喋り屋であり準備家なのだ。
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