コーヒー
わたしには好きな人がいた。
こどものころは味覚がおおざっぱだ。甘ければ美味しい。苦かったり酸っぱかったりするものの良さはあまりわからない。さかなのハラワタや酢の物は存在意義がわからなかった。多く、人はこどもの味覚のまま歳を重ね、何らかのきっかけで味覚が大人になったことを知る。
苦さの良さがわかってくる。
幼い頃のわたしにとってのコーヒーとは、「コーヒー牛乳における添加物」でしかなかった。それもあらかじめ誰かに調合された液体としてのコーヒーしか認識していなかった。苦いし、黒いし、大人が飲むものである。コーヒー牛乳用の原液を飲むのはおかしい。
子供は背伸びをしたいものだ。その欲求を満たすためのアイテムがいくつかある。タバコ、バイク、そしてコーヒー。タバコほど悪っぽくもなく、またバイクほど大掛かりでもない「大人びた行動」としてコーヒーを人生に取り入れようとした人は少なくないと思う。紅茶を飲む高校生よりも、コーヒーを飲む高校生のほうが、どことなく洒落ていて大人びている。
兄の影響、親の影響。尊敬する大人のしていることは自然と真似をしたくなる。音楽、ファッション、生き方。コーヒーを飲んでいれば当たり前のようにコーヒーを淹れるようになるのも当然だ。
わたしには好きな人がいた。
その人と会うといつもコーヒーを淹れてくれた。豆を挽き、湯を沸かし、カップも温め、ドリッパーに湯を通した。淹れたてのコーヒーの香りが部屋いっぱいに広がった。お茶とも紅茶とも異なる、コーヒーだけがもつ独特な空間のできあがり。
好きな人。好きな音楽。好きな香りに、美味しい飲み物。最高だった。ふだんはブラックしか飲まない彼女が、わたしのために砂糖とミルクポーションを用意してくれていた。わたしの好きな人は、少なからずわたしのことも気に入っていたのだと思いたい。
そこからわたしのコーヒー人生が始まった。粉を買い、ドリッパーを買った。ミルを買い、豆を買った。2つ目、3つ目のドリッパーを買い、コーヒーマグをたくさん買った。最初のマキネッタを買い、泡の出るマキネッタも買い、3つ目のマキネッタも買った。ドリップに適したポットも買ったし、電気ポットを使ったときように小型のドリップ用ポットも買った。豆を挽くのは面倒なこともわかった。
夏はドリップを淹れることが多い。冬はマキネッタでエスプレッソを淹れる。どちらも風情があるし、季節ごとに分けておくとコーヒーをいれる仕草だけで季節が蘇ってくる。
わたしの好きな人の好きな仕草が、いまやわたしのものとなり、かつて少女であった彼女が尊敬する人をまねて飲んでいたコーヒーが、わたしの生活そのものとなった。わたしには好きな人がいた。その思いは、毎日の生活に息づいている。
言葉と音楽を愛する小さな獣たちへ なかよくしてください ふわふわのパンより