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疲れと眠りと、呪文

頭痛が先か肩と首の凝りが先か、もう15年くらい見失ったままだ。後頭部から肩甲骨へ向けてなだらかに隙間なくはりついたうすい痛みと疲労感は幻痛のようなもので実体を伴わない。意識の外にある間は痛くなく、意識してしまえば絶えず痛い、そんなの幻痛じゃないか、とすこしまえに結論付けてあまり気にしないようにしている。わたしは自己暗示が得意なのだ。寒くないと思えば寒くないし、痛くないと思えば痛くない、ある種の閾値。

頭痛か凝りかに意識が向いたときはいつも、ああ疲れている、と思う。「痛くない」の自己暗示をやりおおせるだけの精神力が足りない、と思う。そして、でもまだ大丈夫、と思う。時限爆弾付きの身体と精神に乗って26年やってきたから、慣れている。疲れている、でもまだ大丈夫。疲れている、でもまだ大丈夫。その繰り返しの先である朝とうとつ、ぷつりと「もう無理だ」が眼前を覆うことも、もちろん知っている。でも、まだ大丈夫。(これだって自己暗示だけれど、「痛くない」よりは難易度が低いらしい。)

「もう無理だ」のあらわれる2、3日前には「眠りたい」がピークに達することを知っている。でもべつに、たいていは眠れていないわけではないのだ。一日に8~10時間コンスタントに眠っていてそれが物理的には侵されているでもないのに、どんどん朝の(昼過ぎだが)「起きたくないもっと眠っていたい」とか日中の(夕方から夜)「もう帰って眠りたい」とかが勢力を増していく。休日に果てず眠り暮らして15時間寝ても、翌朝(昼過ぎ)にはまた「起きたくないもっと眠っていたい」にくるまれて絶望する。そうやって休日に焦がれながら過ごしてある日、「もう無理だ」が眼前をべったりと覆う。そして何もかも…職場や交友関係や、ある時期には通学・単位・出席率、そういった何もかも…がおしまいになる。そして、何もかもがおしまいになってもその都度わたしは生存しなくてはならず、生存戦略としてひとまずは自傷なんかをしながら、心身の癒えるまでとにかく死なないでいる。(そして心身が癒えたときには毎度のこと、どんどん社会不適合に傷跡だらけの心身が残っている。)

疲労感と眠り、この二つはわたしの人生を鮮やかに貫通し続けるラスボス的概念で、でもやっぱりこのラスボスすらも外的ではないのだから一緒にこの心身に乗ってゆくしかない。

(少し前に、その少し前までは一縷と想定もしていなかった発達障害のテストを受けた。そしてアスペルガーの診断が下った。女性のアスペルガーについてはまだ男性のアスペルガーに比してサンプルも研究も少ないのだけれど、例えば疲労感と眠りの障壁はそこに完全に帰結するように思われて、やはり敵と言うよりは連れ合っていく相手らしい。はじめまして。)

さておき。

疲れている、と思ってスケジューラーを開いてみれば、そもそも今日は三連休明けだった。遊びすぎた三連休。次の休みは明後日だけれど同じ轍の予定だしその次は2週間後だ。

でもまだ大丈夫。

わたしにはひとつ、携えている呪文があり、それすら効かないのが「もう無理だ」なのだけれど、この秋はその呪文もまだ使っていない。

きっと、まだ大丈夫だ。

本を借りるのが苦手です。本を買います。