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2019/05/20-さそり座の満月、幸福と不幸

首と肩がフェータルに濁りかたまるたぐいの仕事を納品した。それは仕事のたぐいの問題ではなくて、わたしの物理的な態度の問題であり、へんな姿勢で4時間も5時間もモニタをみつめるのがわるいのだ。

さいきんは、いつか失明したあとのことを、考えている。それから、幸福と不幸。

幸福と不幸。

さそり座の満月は澄んだ夜の中空に圧倒的にあかるい質量をもって浮いている。半袖に短パンで酒を買いに出るにはまだ肌寒かったけれども、いっそ月光を浴びる気がして、背筋がこわばりをほどく。吸う吐あするごとに、夜の粒子が肺から巡って、内臓が掃き清められていく。

幸福と不幸と、言語の上でわかたれていることをなんだかむつかしいなとおもう。あるいは不幸は、どちらかというとニュアンスとしては不運に近い。happyとluckyの違いなどほんとうはなかっただろうか。happyは連続的なluckyの堆積だろうか。ではunhappyとunluckyもそのような対置関係にあるだろうか。

執拗に左手がなで付けるので、髪が頭蓋に添って跳ねる。

気に入るか気に入らないかで言えば、(わたしはまだ若いからかもしれない、あるいは”ほんとうに”破滅的な目に遭っていないからかもしれないけれども、)"不幸”や”不運”のことを、基本的に気に入っていて、悪くないなと思っていて、ではそれは不運や不幸と《わたしが》よぶ必要は、いまのところあんまりない。基本的にポジティブなのかもしれない。

あるいはむしろ正当に、”幸福”のほうがこわい。不幸は不可逆だが、幸福は可逆・あるいは可塑だ。不幸は不可逆なので、対処のしようもバラエティあれど、これが可逆や可塑だったらわたしは途方にくれてさっさと首を縊るだろう。

シンギュラリティの果てで、人工知能が自殺するのを、見たい。それは、感情の勝利であるような気がする。

本を借りるのが苦手です。本を買います。