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「常軌を逸して愛さねばならない」

平成も終わる平民の家の子としてのわたしにとって、「恋」も「愛」も、完全に自由化されている。親の決めた許嫁がいるでもなく 家柄を気にするでもなく イエの存続を案ずる人格の持ち合わせもない。自由というのは むしろ、能動的に選ばねばならないということで、それは恋や愛に限った話でもない、職業選択なんかもそうだ。ということが果たして前時代よりも「よい」のか、わたしにはずっと断じられない。わたしに断じられることなど今までも なかったけれど。また、よいから迎合するとかわるいから排斥するとかいったたぐいのものでもないけれど。

誰にも決められないでよいというのは、誰も決めてくれないということだ。ものさしが 基準が、ないということだ。まるっきりないとは言わない、社会的な文化的な要請 期待、は外からも内からも依然きこえるけれども、それでも外的な強制力を失ってしまえば、すべては自己責任へ帰結する道へひらかれる。ひらかれている。言い逃れはエンターテイメントにしかならない。

ものさしや基準を自分であつらえねばなりません。

それは、必然性や運命をねつ造することに他ならないじゃないですか。
代替不可能性を幻視することに他ならないじゃないですか。

常軌を逸して愛さねば、整合性が取れないような気分。常軌を逸した愛だから必然で運命で代替不可能なのだということにしなくては、どうにも収まりが悪いような、気分。それをなしに、どうやってみんな肚を決め 腹を括るのですか(反語)。あるいは肚を決め腹を括らずに どうやって「そう」しているのですか。いえハタから眺めるほどに「みんな」平然と泰然としていると 思っているわけでもないけれど。

だって、わたしじゃなくてもいいし、あなたじゃなくてもいい。わたしたちは究極に相互に代替可能で、この地球上には今この時代や・意思疎通可能であることやをふるいにしてみても、ものすごい量の人類がいて、唯一無二なんかほんとうはほんとうにないのだとわたしは心底思っていて、

だからこそ、わたしでいいしあなたでいいし わたしがいいしあなたがいい ということそのものがちゃんと貴くあれる。それは、必然性や運命や代替不可能性を、歴史が・信頼が超えるということだ。

誰でもいいのにもかかわらずなぜだかどうしてわたしとあなたが わたしとあなたとして(すでに)ある。それは、必然や運命や代替不可能の一点で取り返しつかずかたむすびされることよりも、はるかに、はるかに、奇跡的で 祝福なのではないかなんてことを、平成最後の冬が生き絶える狭間に、思った。

わたしは、あなたの必然で運命で代替不可能ではないし、あなたは、わたしの必然で運命で代替不可能ではないけれど、常軌を逸さずともわたしは、心底あなたをあるいはあなたたちを 根本的に愛しているような気がする。

という、覚書です。

本を借りるのが苦手です。本を買います。