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死にたくても生きていていい東京だ。

仔細を語っても語らなくてもうすっぺらいので語らないも、死にたかったわたしはもう明確にいなくなって曖近はひじょうに心身調子もよろしくもはや身体感覚に懐かしさと感動をおぼえてすごす。立春をすぎても大気はつめたいが、昼間めずらしく外を出歩けば春の色が鼻先をかすめて、驚いて肌が粟立つことももう増えた。その一瞬あとには馴れてしまう。

密度というよりは体積として堆積としての「ずっと」、”居場所”のことをかんがえてきて、おそらく、つぎの暮れまでにはひとつの曖昧な体系を・あるいはその骨を、眺めることのできる予感がある。

結局わたしが死ななかったのは、「死にたくても生きていていい」と東京の友人に教わったからだった。だらしなく行き来したふたつの部屋、わたしをふくめて3人の女の子。

世界、社会、世間、一般、論理、そういったものものによれば、たとえば死にたいと言いながら死なない若人は情けなく格好悪くダサく卑下の対象になるらしいと聞き及んでいるけれどちかごろもまだそうなのだろうか。あるいは死んでもなお、情けなく格好悪くダサく卑下の対象になるらしいと聞き及んでいるけれどちかごろもまだそうなのだろうかしら。

わたしだってそう思っていた。

根本的に醜いものが耽美主義をまとえば、それは早逝礼賛まで0.02mmもないのだし、

そもそも美を善しとするのは耽美主義に限った話ではなくむしろ資本主義の全体的な病いでもあるのだから、なぜ彼らが他人事の顔で無関係を嘯くのか滅法も理解できない。(いえ本当は理解できる。)

「醜いからある種の美を手に入れるために早逝したい というのなら 死ななくてはならない」という、すごくあたりまえの論理的な要請の帰結は、「死にたいので死ななくてはならない」と短縮されうる。

死にたいので死ななければならない

滑稽な文字列なんだろうなとは思えど、わたしには わたしたちには、この文字列は切実に逼迫した、苦しみの果てを濃縮して還元しない原液のような1行だ。

言われたことはないけれど、聞こえる。「死にたいなら死ねばいいじゃないか」と、真顔でつめよる、世界、社会、世間、一般、論理、そういったものもの。言われたこともあるのは「死なないなら死にたくないんじゃないか」と、被害妄想でも幻聴でもなく、内在化してしまった一般的な倫理観がパンクしそうに加熱する。


自分の死にたさを証明するためには死ななくてはならないんだって。


そして、「そんなことはないよ」と、「死にたくても生きていていいのだ」と、わたしは東京の友人に教わった。

醜いが故に美を手に入れたくて早逝にあくがれるまま、
死にたいと滑稽に喚き悲壮に落ちぶれるまま、
生きていくのも案外可能なことなのだと。

それだってある種の耽溺で、夜職のお客が心底気持ち悪いけれど払いだけはいいんだとか、来季の受注会で何十万使いたいとか使ったとか、昨日はあの錠剤を幾壜のんでみちゃったとか、男を連れ込んじゃったから昨日は会えなかったねとか。処方薬の副作用でろくに会話ができなかったり、覚えていないことがたくさんあって噛み合わなかったり、そういうことすらも「そうやって暮らすわたしたちも悪くねえな」って3人で笑ったり茶化したりじっとり泣きながら話したりしていられたから、3人とも、今のところ死んでいない。

地雷 という比喩があって、けんこうな人々は狙ったかのごとく全てをスキップで踏んでいくけれど、わたしたちはある程度ずたずただったので、誤って踏み抜き合うなんてこと一度も覚えがないので、

その、尊重といたわりの充満した部屋のことをわたしは”居場所”の根底に見る。理解ではなくて、尊重といたわり。


わたしが「社会復帰」できたのは、そういう”居場所”に複数めぐまれたからであり、そこに居た友人たちにことごとくめぐまれたからであり、

つまるところただのラッキーなので、それがものすごく怖い。

”居場所”や友人に恵まれず、切実な逼迫に圧し殺された並行世界のわたしがあまりに近くて、こんなことが運任せだなんてとても耐えられない気分になる。

どうやったらあれらを必然として、あるいは意図的に、発生させられるのか、

わたしはあっちの世界のわたしを救わなくてはならないので、今世のうちに、思いついておかなくてはならない。

本を借りるのが苦手です。本を買います。