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2019/07/19-相対、次元、真偽の話

頭にあることを順不同箇条書きに吐き出していったら空っぽになってしまって何も考えられなくて、でも感情だけ駆動していて、同じところをぐるぐる回り続ける曖近だ。

絶対正しいとか絶対誤りだとかというゼロとイチの話は割と根源的なアルゴリズムの中にしかなくて、そのゼロも一次元上から眺めれば解釈のしかたがあったりしてしまって、だいたいが全然ゼロではない。相対的なものばかりだ。ないはあり、ないがないはない。

「次元が低い」という詰りがある。「次元が違う」という称賛あるいは皮肉がある。その「次元」って常用としてかなりの頻度でほとんど単に「桁の違い」であることが多くて、つまり「桁外れだ」でいい。…いやまあ桁が違うというのは乗数が違うということでつまり次元が違うということではあるんだけど…本来的に「次元が違う」というのは…違うというよりはそもそも次元に関しては多寡の話をするべきでありその 「次元そのものの多寡」のことを考えれば、「絶対」なんて、本当に本当に根源的なアルゴリズムより一次元上にはもう、ないじゃないかと思っている。次元というのはここではモノサシの数だと思ってもらえたらわたしの指すものに近い。

同一の宇宙の中で違う次元を生きる人がいる。というか同じ次元を生きる人が滅多にいない。そこでいくら自分のそこにおける"絶対的な"正当性を、自分のそこを内包する何次元か上の 一般や社会における"絶対的な"正当性を、獲得して、それで何になるのだろう。何が豊かになって、何が貧しくなるのだろう。

かなしい事件が起こって、このかなしみが絶対なのか、わたしにはやっぱりわからない。この怒りが、やるせなさが、絶対なのかわたしにはやっぱりわからない。でも、絶対的だとか相対的だとかはおいておいても、べつに「本物だ」くらいは言っていいと思う。

というか本物以外の何がこの世にあると言うのだろう。

いっそ彼の論理が正しいとか誤りだとか、言うのすら、わたしにはできない。わたしにとって正しい(都合がよい)とか誤りだ(都合が悪い)とかは言える。それしか言えない。そして彼の論理は、存在は、すべてひとつも偽物ではない。わたしのそれが、ひとつも偽物でないのと、まったく等しく。

創作物だって偽物ではない。本物だ。嘘だって偽物ではない。本物だ。事実かどうかが問題なのではない。すくなくともわたしにとっては。

正しいとか誤りだとかの話は、たんに戦争だ。勝ち負けの話だ。違うモノサシの上で生きていればそこに絶対値としての差分が出るのは当然だ。出ないわけがない。もう一次元上に行きたい。「わからないけれど、とにかく本物であろう」と、そこからすべてを始めたい。それは危ないくらい信じるということかもしれないけど。せめても本物と本物の殺し合いなら。初めて同じ土俵に上がることができるなら。

わたしはもしかしたら彼とだって友達になれたかもしれなかったと、そしたら彼はあれをやらなかったと、そしたらかなしい事件はなかったと、思うのを どんなに不遜だとわかってもやめられない。何も取り返しはつかない。時間が一方向にしか進まない世界をやめられるとしたら、それはわたしが概念になるしかない。概念になるのだって、取り返しはつかないだろう。

一文加筆しました

本を借りるのが苦手です。本を買います。