見出し画像

現象に立ち向かうわたしが現象になる

11月生まれだからか、例年11月12月はすでに年の明けたように感じる。このところ思念漂っていた2019年の抱負が言葉になったので、それを今朝 固定ツイートに置き換えた。

現象に立ち向かうわたしが現象になる

我ながら、苦戦しつつもなんとか傷つけずに捕まえられた言葉だと思う。
これを、意図的に、今年分の固定ツイートへぶら下げた。

祈りとはつまり、「世界線に対してわたしは無力などではない」という宣戦布告だ

こちらは2017/12/12のわたしが書き残したもので、なんと切迫して真理だろうかと未だに惚れ惚れする。たまにまったく知らない人々に気に入られては「そうだよね」と思う。そうだよね。わたしたちは、この世界は、そうだよね。

この言葉は今回みたいな漂泊を経ずにスルリと、スルリとというか ナイフの切っ尖にビッと抜かれそこから溢れるように出てきた。事実切迫していたから、切迫した言葉だ。あれは、わたしの大切な大切な大切な友人の、事故の報せに圧されてぺしゃんこになった心から、内臓のように溢れてきた言葉だった。


その友人はかつてわたしを救おうとした。わたしはそれを拒んだし救おうとして救えるものではなかったのでそのときわたしは、彼の正義を圧殺した。
それから2年が経って2017/11/17、わたしは不意に、誰によってでも何が起こってでもなく、本当に唐突に救われてしまった。これは、救いが「発生した」のだと思っていてわたしの「救い」観の根源体験になったけれど、つまり彼を拒んだことは燦然と事実でありつづけた。
朝も昼も夜もなく寝食を投げ打ってみずからの内側に目を凝らし言葉を尽くす日々が始まった。仕事中でもノートにペンを走らせ続けて受験期以来のペンダコができた。オンラインでのやり取りをしすぎてサーバに一時的にセーブされた。概念が心身を駆け巡りおよそ現実世界についている足の裏に役割がなかった。

混乱のさなかのわたしに、傷心の彼から連絡が入った。久々に会った彼は自責と不条理に、諦めた笑顔を浮かせて疲れ果てていた。そんなところにお知らせなんだが死にたくなくなっちゃった、と伝えると数秒のショートののちに彼はなにかを、たぶん祝うようなことを、言ってくれた。


1週間後、彼の事故の報せだけが入った。あまりに簡潔に漠然とした報せに頭は空回りしエラーを吐きながら、つまり、命に 命が助かっても魂に 疵がつくようだ、ということを理解した。理解したくなかった。

わたしが死ななかったのに彼が死ぬわけがなかった。
先週陳謝のためのようかんを持て余していた彼が、一昨年わたしを救おうとした彼が、うっかり死にぞこなったわたしが生きる覚悟をしたというのに、死ぬわけがなかった。

祈りとはつまり、「世界線に対してわたしは無力などではない」という宣戦布告だ。

わたしはあるとすれば世界を憎んだし、いるとすれば神を憎んだ。世界に泣きすがったし神に願った。祈った。祈った。祈った。彼の魂をかえせ。


なんと彼は 半年もせずに、完全にかえってきた。そこには容易く想像することも憚られる辛苦の怒濤があったが、彼の命も魂も ほとんど無疵に かえってきた。

祈りとはつまり、「世界線に対してわたしは無力などではない」という宣戦布告だ。

だから、今度は、現象に立ち向かうわたしが現象になる。

本を借りるのが苦手です。本を買います。