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トーキョー・デペンデンス、あるいはafkのこと

概念としての「東京」に、大いに依存している。

さながらザナルカンドのように、「だいじょうぶ、東京は眠らない」。冷たいという揶揄はまるきり見当外れに、わたしは東京にこそ甘やかされている、これは受動態ではなく能動態として、あるいは中動態として。

誰もひとりでは生きられないなんて綺麗事っぽいリアリズムのセンテンスとはすこし異にして、わたしは明確に、孤独や孤高をやる能力を欠いている。なにより人が好きだ。人に依存している。そう、概念としての東京というのはようするに人のことだ。東京の人々。

「ちょっと、困っている、助けてくれないか」と言えるのは、東京が日本においてもっとも島宇宙の密在する物理的な土地だからで、それは、わたしにとってはほとんどインターネットのようなもの。そこここに無数のコミュニティがあり、それぞれに濃淡のルールがあり、閉じているけれど隣接していて、繋がりうり、インスタント。インターネットに依存して育ったので、インターネットみたいな街に依存するなんてのは当然の帰結だ。

「afk」と頭上に示して抜け出すことが現実世界にはまだむつかしいことが、わたしの困難のひとつだ。Away From Keyboard. 不在です。無視じゃないです。未読スルーじゃないです。不在なんです。

現実世界では「不在」なんて本来はない。肉体につねに載って暮らしている。選んだわけでもない肉体に。代わりに「立て込んでいる」「取り込み中」「忙しい」と言う。いそがしいという字は、心をはさむと書きます。書きません。「心を亡くすと書くので、忙しいって言わないようにしている」?うるせえな。じゃあ「忘」についてはどう思ってるのか言ってみろ。

それでもまあ、「心亡い」というのを「ゴーストが、今ここにないこと」と言い換えてみれば、それはつまり「afk」と同じ意味になるので、なんとなく腑に落ちる。いまわたしのゴーストは不在です。My Ghost is Away From this Body.

わたしは「ちょっと困ったな」といってひとつの島宇宙をafkし、べつの島宇宙へ《戻り・afkを消して》「ちょっと困っているのだけれど助けてくれないか」と言う。

そんな芸当は東京くらいでしかうまいこと運用できないような気がして、そう思ってみればわたしが依存しているのは「afk」という概念なのかもしれない。中動態としての「afk」。

本を借りるのが苦手です。本を買います。