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友情と恋愛?恋情。

昔から、友情と恋愛の区別がうまくつけられない。そもそも並列するなら「友情と恋情」くらいに、言葉としてのレイヤーをそろえろよと思う。恋情と愛情が異なるというのに、「恋愛」なんて単語ではもう、どういった営みを指すのかさっぱりわからない。もう26歳なのに。「あ・じゃ・ぱー!」と部屋の中で踊ったりしている。6歳くらいでしょうか。6歳くらいのものがなにかを書きつらねております。こんばんは、あなたの部屋は寒いですか。暖かい飲み物をガバガバに飲んで臓腑をスープでビシャビシャにしてやりましょう、そこから1日が始まる。職場についてデスクに向かうころには、そのスープは指先や毛先のすみずみまで行きわたりあなたという生命を祝福するでしょう。魔法のスープなのです。

さて同じような感情、きらめきやよろこびやしたしみやなじみを持ってして、相手が異性ならば恋人なのか、同性ならば友人なのか。そういう運用はけっこう目に付くように思う。わたしはごく好奇心で同性の恋人を持ったことが何度かあるけれど、それが失礼な振る舞いだったとは思わない。そこに好意はあったし、それを行き交わした。普通の恋情のありようだったはずだ。また、あるいは異性の恋人を持つことだってわたしには毎度毎度、ごく好奇心からやっている。
異性の友人よりも同性の友人のほうが少ない傾向はあるが、それはこっちの認識の話で、相手からすればまたちがうだろうなとも思われる。そもそも「友人」の定義からして怪しい。わたしの中ではもはや、「一定以上したしいけれども恋人ではない存在全般」が友人の定義かもしれず、それは「恋人」を特別に持ち上げるというよりはつまはじくということであり、なんなら恋人というのは友人よりも脆弱だ。恋情には終わりがある。友情には、あまり明確には、終わりはない(ことが多い)。

それでも終わった友情というのにはいくらか覚えがあって、それは、すごく恋情めいたものだったのだと思う。恋情だったから終わったのか、終わったから恋情だったと思うのかは、わからない。終わっていないから友情なのか、友情だから終わっていないのかもわからない。そもそもそもそも、わたしは友情と恋情を区別できていないのだからこれはやっぱり定義のガバガバによるわからなさだ。だけど経験と直感によるならば、友情は終わりえにくく終わりえにくいのが友情で、恋情は終わりえやすく終わりえやすいのが恋情。そして、これまでに終わった友情たちは、確かに、恋情めいたものたちだった。

以前「なぜ異性の大親友」ではなくて「恋人」にしたいのか、というのをしごく真面目に考えたり人と話したりして過ごしたころがあって、その8〜9年前の暫定解、未だ覆る根拠に出会わないそれは、大枠には「権利」、もっと言えば「所有権」だった。

この人についてなんらかの権利を持ちたい。
この人の所有権を手に入れたい。
この人の占有権を手に入れたい。
そういうこころの働きは、つまり嫉妬や束縛やに起因しており、さらにそれを正当性あるものとして中和させるのが「権利」だ、と考えたし、いまでもそのようにおもう。

これもニワトリタマゴ論だけれど、「友人には嫉妬しない。嫉妬する権利がないからだ」「恋人には嫉妬する。嫉妬する権利があるからだ」と、まるで権利を先行させるように感情を追従させることだって(苦楽あれど)珍しいものでもない。

あるいは少女漫画なんかでは、「嫉妬して初めて恋をしていることに気づく」ような描写はそこらじゅうビショビショになるほど溢れている。濡れた靴下って最悪。嫉妬する権利を持たないものが嫉妬して初めて恋情を自認し、そのあとはまあ紆余曲折あって権利を手に入れたり、手に入れなかったり、する。

ここまで1500字を軽く超える中であえて言及していなかったけれども、この「権利」の主体は、対象は誰なんでしょうか。権利を行使するもの。されるもの。ではないとわたしは思います、それはね、世間。あるいは常識。

世間や常識が「嫉妬する権利がある」とささやく。
世間や常識が「束縛する権利なんてない」とささやく。

アホみたいじゃないですか。わたしはアホみたいだなと思ってきたし、今も思っている。「世間・常識→権利→恋情/友情」ここまでにこんなに書いたこの一連をね、すごく、アホみたいだなと思っている。友情だったはずのものが、恋情めいたそれらによって壊れてきたことを、すごくアホみたいだなと思う。

運命の恋ってよく言うけれど、わたしは気色悪いことを言えば、運命の友人をいくらか持っている。「持っている」?そう、持っている。でもそれは所有権をあらわさない。

わたしの中に、彼らがいる。

所有権というのは、横取りされることをこそ前提に作られたもののはずだ。わたしの中の彼らが、横取りしえないものだということは自明なので、つまりそこに所有権はない。

ほら、そう思うと「恋人:その所有権」というあり方のなんと脆弱なことかがよくよくわかる。ならびに、恋情めいた友情というもののおそろしく脆弱そうなことも。

ここまで読むとたぶん「タナカって恋愛のことが嫌いなの?人のこと好きになったりしないの?これまでの・今の恋人のことはなんだと思ってるの?」あたりの疑問がわいて出ているであろうことくらいわたしにはまるっとお見通しだ。

わたしはまったく健全に、権利を求めた恋情を持つし、「恋愛関係」をやる。ただそれが脆弱なのはわかってるのでいつだって嘆いている。スタンスとしてはそれだけ。強いて付け加えるならばその権利というのが、彩度のある嫉妬というよりはモノクロの執着であるところなんかは、もう少し書けるかもしれないけれど今回は止す。

大人の「好き」は多くの場合「この人を大切にしてあげたい」だが、子どもの「好き」は「この人に自分の機嫌をとってほしい」である。しかし、大人になっても子どもの心ままに「好き」を使う人がいるので、横から見ると「どうして好きと言いながら、こんな酷いことをするのだろう」という事例が出る。
出典

これは以前Twitterで見かけて感動したもので、わたしは明確に後者、「こどもの『好き』」をやっているからだ。ただ、さすがに大人なので「自分の機嫌をとってくれ」とは明言しないけれど、自分の機嫌をとるためにその相手を用いるみたいなことは平気でやる。

いわゆる片恋のつらさというのは、自分の好意・感情を拒絶・否定されるのではないかという不安だと思うのだが(そしてそれが人々にとっては醍醐味らしいのだが)わたしは自分の好意・感情を拒絶・否定されるのはものすごく嫌です。ので片恋の間でもわたしはいくらでも「好き」とか言う。だいたい拒絶はされません、相手も大人なので。まあ、それを受容と捉えてはストーカーが爆誕してしまうのだし、わたしはこの「拒絶はされない」で完全に満足し、なんならその満足によって片恋は終わり、さっさと友情へと舵をきることになる。

眠剤を飲んで眠るまでの散文で、まとまらないですね。ほんとうは愛情と殺意の話もしたかった。おやすみなさい。今日はいい夢を見たい。

本を借りるのが苦手です。本を買います。