やわらかく着地していく ほどけてゆく あとはだから眠るだけ
なんか知らんが、いっつも悔しがってるな、自分。と気付く昨今。
「あのとき手を抜いたからかもしれない」「あのときいい加減な対応をしたらかもしれない」「あのとき有給とったからかもしれない」「あのとき」「あのとき」「あのとき」
どのときだ。
それは一体、どのときだ。
いいから一旦落ち着け、自分。
全方位に張り巡らせる神経は、振りまく愛想は、自分の無能さの象徴だ。優秀な人はこんなことしない。ちゃんと緩急をつけられる。ちゃんとポイントを外さない。自分も周りも大切にできる。
ほんとうに優秀な、仕事のできる人というのはそういう人だ。
「もしも自分に才能があったら」「もしも自分がとびきりの器量だったら」「もしも自分が天才だったら」「もしも」「もしも」「もしも」
もしもなんてない。
「あなたはほんとうは、早くお嫁にいってしまうのがいいのよね」
わたしのことをよく知る先生に言われた。
これについては、彼女は、わたしを軽視しているとか、そういう意味で言ったのではないってことは分かる。医師として、思ったのだと思う。
「もう少し肩の力を抜いて生きなさい」
いつも母に言われる言葉。もう少しってどのくらいなのか分からない。そのもう少し抜いた肩の力で、あとでとんでもないしっぺ返しをくらったらどうしよう。
「なんかバカにされてる気持ちになる」
ある男の人に吐き捨てるように言われた言葉。
バカになんてしてないんだけど。してないんだけど。これはマジで。
ただ、自分で自分のことを「まだまだだ」って思っているのに、その自分よりはるかにいい加減だったり不誠実だったりする人を見ると、信じられない気持ちになってしまう。
でもだから「多分こうした方がいいんだろうな」っていう想像で慰めたり、ウンウンって話聞いたり、そういうことちゃんとしてたんだけどな。まあ、できていなかったのでしょう。
非凡アピールする凡人が嫌い。理由つけてすぐに辞める人を尊敬できない。だからわたしはきっと、ぼんやりうっすら全員のことが嫌いなんだろうな、って思う。言わないけど。
だって、保身しか考えてなくて、向上心もなくて、努力もしない人のこと、どうやって尊敬したらいいか分からない。(こんなこと言ってるからダメなんでしょう)
なにもかもが悔しい。もっとやれたんじゃないか、いや、思いつくことはやったはず。でも、きっと、有能な人なら、もっともっといろんな角度から物事を捉えられて、革新的な発想があって、とか、とか。
いや、そんなこと求められる仕事、そもそもやってないんだけどな。
出張帰りとか、めちゃくちゃ疲労が溜まっている時、家について一番うれしいのは、「誰もいない」っていうこと。
もしも誰かと暮らしていて、それが自分の好きな相手なんかだとして、その人にこんな顔は見せたくないし、こんな弱ったところは見せたくない。
きっと優しい言葉を言えたりしない気がする、言えたとしても少ない言葉しか言えないかもしれない。その人のために食事の支度をしたりするのが遅くなるかもしれない、疲れてソファーで寝てしまうかもしれない。そんなの耐えられない。好きな相手が家にいるのに。
だから「誰もいない」ということが唯一の救いだと最近ほんとうに思う。
「あのときちゃんとご飯作ってあげなかったからかもしれない」「化粧はげまくりの半妖怪だったからかもしれない」「うっすらオッサンに見えるレベルだったかもしれない」「あのとき」「あのとき」「あのとき」
「お前といると疲れる」っていつだったか誰かに言われた気がする。わかる、わたしもわたしに疲れてるもん。
「もっと思ってること言ってくれないと分からない」って言われても「あのとき思い切って言った本音がだめだったのかも」「とかなんとか言って我慢した方がいいのかも」「あのとき」「あのとき」「あのとき」
だから家に帰って誰もいないと本当に落ち着く。
ああもう、ここでは誰にも何にも話さなくてよくて、話さないことがプラスにもマイナスにも働かず、今ここで起きることは誰にも何にも影響しない、ここで怠けようがブスだろうが、何の評価にも影響しない、と思えることで初めてわたしは安心できる。
人と一緒に暮らすの、そもそも向いてなくない?
「あなたがそんなことをいちいち考えなくてもすむような人がいるよ」「そういうところもふくめてあなたを受け容れてくれる人がいるよ」
まあそれは、半分は正解なのかもしれなくて、でもそれについて言えることは、わたしはわたしの覚悟が決まっていないということなのだと思う。
「このままなんとなくデートを重ねていけば交際することになって、それがなんとなくうまくいけばもしかしたら結婚しようってなるかもしれない」っていう想像をするだけでこわい。おそろしい。
だってそしたら、弱い自分も強くない自分もボロボロの自分も親切じゃない自分も愛想をふりまけない自分も全部見せないといけない、もしくは、見せないようにマックスの努力をしないといけない。それこそ息が詰まる。無理だ、やっぱり腹は括れない。
お腹の中に溜まった言いたいことは、気がつけば腸あたりから喉元くらいまで溜まっている気がするけど、それももう、どうでもいい。
余計なことは言わない。「あのとき言ったあの言葉のせいかもしれない」「やっぱりあれは言わなければよかったのかもしれない」「あのとき」「あのとき」「あのとき」
「もしも」も「いつか」も「一発逆転」もないことを知っている。だからわたしは、目の前にあることをいつも一生懸命取り組む以外に方法が分からない。要領よく生きる方法が分からない。
確固した立場も、社会的な地位も名声も、何もない。
ただ、目の前にあることを腐らず(たまに少しふてくされながら)、やっていくしかない。だってそれが生きてくってことだから。
確立したものがないから、どんなことにも、どんな場面にも、どんな人にも、対応できたらなと思う。そのくらいしか、できることがないんだから。やらなきゃな、だってやっぱ、働くってことは生きるってことだから。
でもさ、やっぱ、すごくすごく悔しかったんだな。
こんなこと、大人になっていうのもおかしいってわかってる、みんなそうなんだってわかってる、自分よりもっともっとみんなそうだってわかってる。
でもさ、結構がんばったから。だからやっぱり悔しかった。
何事もなかったみたいにその翌日も、その翌々日も、昨日も今日も明日も、それでもやっぱりずっとニコニコがんばってるのはやっぱりさ、えらいって思う。
労働の悔しさを知っているのは、労働の楽しさも、労働の美しさも知っているからなんだろう、と、今は、そうやって納得することにする。
やわらかく着地していく ほどけてゆく あとはだから眠るだけ
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