名探偵コナンについて※ネタバレ有

前置き

 忘れもしない2021年6月7日、私は「劇場版名探偵コナン緋色の弾丸」を観た。私はその日に生まれて初めて「劇場版名探偵コナン」を観た。記憶している限りでは漫画どころかアニメすら見たことがなかった。江戸川コナン=工藤新一であるということはギリギリ知っていた。私の最も仲が良い友人の一人でかつ最も尊敬するオタクの一人に名探偵コナンのハードなオタクがいるのだけれども、彼女が私を鑑賞に連れて行ってくれた。たしか彼女は6月7日時点で「緋色の弾丸」6回目か7回目の鑑賞だった。彼女は主要なキャラクターのプロフィールを説明してくれたが、その内容は工藤新一と江戸川コナンが冒頭で「俺は高校生探偵の工藤新一!幼馴染の毛利蘭と遊園地に行った帰りに…」から始まる例のアレで全部説明してくれた。終映したとき、魂が震えすぎて誇張ではなく本当に手が痺れてびりびりしていた。はっきり言って人生を変える出逢いだった。その日からTSUTAYAで劇場版名探偵コナンを狂ったように片っ端から観始め、Kindleでコミックスを全巻(その時点で99巻)購入して夜な夜なコナンを読み、お風呂でアニメを観た。

出逢いの日からもうすぐ1年が経つが、あまりにも名探偵コナンへの想いが溢れすぎたのでnoteを書くことにした。このnoteは私のFFで名探偵コナンをあまり知らない人を読み手に想定している。一体誰が読むのかマジでわからないけれど誰かが名探偵コナンをちょっとでも観たりするきっかけになればいいなと思う。以下に注意事項を書かせてほしい。


注意事項

1. 一部本編(映画など)のネタバレを含む。犯人やトリックを特定する重大なネタバレはなるべく書かない。ここに書く範囲のネタバレで「名探偵コナン」が面白くなくなることはありえないが、本当にネタバレNGな人は読まないでほしい。正直まったくネタバレなしで書くのは無理がある。

2. 劇場版についての内容がメインである。一部コミックスについての内容も含む。私が把握しているのは①1997年〜2022年までの劇場版 ②コミックス1巻〜101巻 ③アニメの一部分 の内容である。(アニメは全ては観ていない)劇場版について主に書くのは劇場版を先に見たため思い入れが強いからであるが、原作絶対至上主義の人がもしいたら許してほしい。

3. 私は江戸川コナン(工藤新一)に過剰な夢を抱いている自覚がある。(この「夢」とはオタク用語で言ういわゆる「夢女」的な意味ではなく「幻想を抱いている」という意味である)

4. 私の「名探偵コナン」の解釈は偏っているかもしれない。それは私の思想が一部偏っているからである。ここに書く「名探偵コナン」の解釈は私の脳内における「名探偵コナン」なので、「私の思う名探偵コナンと違う」というクレームは一切受け付けない。そんなことは知らない。私は私のためだけに名探偵コナンを見ている。

以上よろしくお願いします。



「名探偵コナン」はヒューマニズムの作品である

 これは私が「名探偵コナン」を知り始めた最初の頃から思っていることである。「ヒューマニズム」が良いか悪いかという話はここではしない。あくまでここでは良い意味でその言葉を使う、ということだけ明記する。

「名探偵コナン」の中では、人間の良心というものの存在が強く信じられている。これは作品を通したテーマの一つだと私は思っている。知っての通り「名探偵コナン」においては人物が何らかの罪を犯し、その謎を江戸川コナンが解き明かしていくという筋のため多くの犯罪者が登場するが、彼らは自らの罪をコナンやその他の探偵役たちに言い当てられて白状する。その際に多くの場合、彼らは自身の犯した罪の大きさを知り、やってしまったことを後悔するのである。このことは、彼らに良心が残っているということでもあるし、踏み外してしまった人生の中で善へ立ち戻るチャンスを与えられるということでもある。

 また「名探偵コナン」においてはコナンたちは犯人を「法の下で裁く」ことに重きを置く。「名探偵コナン」には身近な人を殺されたなどの理由で私怨に駆られて罪を犯したり犯そうとする人物が多く現れるが、コナンはそれを全力で止めようとし、決して憎悪を連鎖させるのではなく法の正義に委ねる。(2022年の劇場版「ハロウィンの花嫁」ではそれが特に強く描かれている)「名探偵コナン」において人間社会のルールとしての「法」の重要性が信じられていることの表れである。



私が好きな江戸川コナン①この地球上の誰よりも毛利蘭のことが好き

「私が好きな江戸川コナン」を3点挙げるが徐々に書いていく。まず1点目が上記である。ちなみにこの「地球上の誰よりも」というフレーズは2000年の劇場版「瞳の中の暗殺者」に出てくる。江戸川コナンこと工藤新一は幼稚園の頃から幼馴染の毛利蘭のことが好きである。色々エピソードはあるけれども、私が特に好きなのは1997年の劇場版「時計じかけの摩天楼」のコナンである。映画の終盤、彼は大規模な爆弾が仕掛けられた建物に閉じ込められた蘭を助けに行くが、蘭との間を分つ一枚の扉が開かなくなってしまいあと一歩というところで蘭に会えない。そこで蝶ネクタイ型変声器を使い、工藤新一の声で蘭に話しかける。そのあと扉を挟んで爆弾を解体しようとするとか色々あるのだが、クライマックスで自分自身は蘭を見捨てて逃げることさえできるにもかかわらず扉の前に鎮座し、「死ぬときは一緒だぜ」と運命を共にしようとする。なんて陳腐なメロドラマ。しかし私はこの、「毛利蘭と一緒になら死ねる工藤新一」が心の底から好きなのである。



私が好きな江戸川コナン②死なせない

 お前は何を言っているんだ、コナンと会ったら死ぬとさえ言われるほど「名探偵コナン」ではたくさんの人が死んでいるじゃないか、と言いたいのはよくわかるが頼むからちょっとだけ待ってほしい。

 確かに「名探偵コナン」では物語の起点として人が死ぬ。しかし極端なことを言うと、物語上の意味において「無駄に」死ぬ人間は一人もいないのである。コナンは、既に死んでしまった人間のことは冷静に検死したり推理したりする。その姿はある意味冷酷とも言えるかもしれない。しかし彼は、「生きている人間を死なせない」ことには驚くほど全力を費やす。死んだ人間のことは検死するが、死にそうな人が目の前にいてまだ助かると判断した瞬間、思いつく限りあらゆる手を尽くしてその命を救おうとする。毒を摂取して死にかけた人間に、口から摂取した可能性があることを認識しながら人工呼吸をしたこともある。(コミックス45巻収録)ちなみに彼が「死なせない」ことにこだわるようになったのは原作コミックス7巻収録の通称「ピアノソナタ『月光』殺人事件」(アニメにおける名称)がきっかけだと言われているが、ここでは割愛する。

 中でも私が特に好きなのは2021年「緋色の弾丸」における江戸川コナンである。彼と彼に協力するFBIのメンバーたちは一連の事件の犯人を突き止めるが、その際FBIのメンバーらは犯人を暗殺する計画を立てる。コナンはその計画に一度は賛同する素振りを見せるのだが、すんでのところで、犯人の動きを止めるけれども犯人が死なないようにあることをする。あとで彼は「たとえ凶悪犯でも殺さない。あのボウヤはそういう主義らしい」と評されるが、そこには江戸川コナンの「これ以上命を無駄にしない」という信念と、既に書いた「あくまで法の下に犯人を裁く」という信念が表れている。



私の好きな江戸川コナン③人のために命を賭けられる

 これは既に書いた②ともやや似ている。「命をかける」という表現には「懸ける」と「賭ける」の2種類があり、この場合どちらも当てはまるが、「賭ける」のほうが私の言いたいニュアンスに近い気がしている。彼は人を救うというただそれだけのために、まさに自分の命を「賭け」ている。劇場版「純黒の悪夢」の中で「できるか?」「わからない。けどやらなくちゃ」という会話があるが、その「わからない。けどやらなくちゃ」は江戸川コナンという人間を非常によく表していると思う。コナンは人の命を救うためにあらゆる手段を尽くすし、時に極めて危険なこともする。しかし彼は自分の命を捨てるわけではない。自分にそれだけの頭脳や力や人脈があることを正しく認識して、自分にならそれができると信じている。そのうえで最後には、一世一代の大博打に出るのである。たとえその人間がまったくの他人であったとしても、そこに愛情などが介在していなかったとしても、彼はただ純粋に正義のためだけに命を賭けることができる。これがヒーローでなくてなんだろうか?

 私が最も好きな江戸川コナンは、2011年の劇場版「沈黙の15分」の江戸川コナンである。この映画は雪山が舞台だが、終盤コナンたちの滞在する村の近くのダムが爆破され、このままではダムの水が一気に村に流れ込んで沈没してしまうという事態が発生する。コナンは阿笠博士特製の電動スノーボードに乗って雪山にたった一人で飛び込み、ある方法で雪崩を起こして水の流れを変えることによって村を救おうとする。小学一年生の体を持った一人の少年が本当にその方法で雪崩を起こせるのかという物理科学的なことはこの際どうでもいい。私はとにかくこの、人生を賭けて村ひとつ丸ごと救おうとする江戸川コナンが大好きである。すべての命は救えない。でも自分にできることは精一杯、両手いっぱいに伸ばして救える命は救おうとする。私が江戸川コナンを大好きなのは、彼が私の唯一無二のヒーローになったからなのだ。



 以上が私の特に好きな「名探偵コナン」である。本当はもっともっと好きなところや書きたいことがあるけれども、一時間ぶっ続けでこれを書いたのでもう疲れた。そもそもこんなにつらつらと書かれたnoteを読む人がいるのだろうか。私と会う機会のある人は、いくらでも喋るのでもし興味があったら話しかけてくれれば幸いである。