見出し画像

歩くような速さで

音楽の速度記号に「Andante(アンダンテ)」というものがある。意味は「歩くような速さで」。ピアノを習っていた頃からは随分経つけれど、今でも印象に残っている言葉だ。たぶん、作曲家がプレイヤーに理想のテンポを伝えるための速度記号に、まるで「個人の歩く速さ」に頼ったような表現が使われていることがおもしろかったのだろう。

リズムと身体は連動する。

j-hopeさんはお元気にされているだろうか。彼が入隊直前に置いて行ってくれたこの曲を聞くたび思う。口笛の音とゆったりしたテンポが気楽でいい。散歩のときなんかに聞くとちょうどいいのだ、どこまでも歩いていけそうな気分になって。

リズムに合わせて体を揺らしたり、回ったりしながら、ストリートを闊歩するj-hopeさん。身体のどこにも無駄な力がかかっていないかのよう! いいなあ。一緒に歩いたり踊ったりしたくなってしまう。

Andante、歩くような速さでとは言うものの、ちゃんと目安とされるテンポはある。BPM63~76だそうだ(どのくらいかというと、BTSさんの曲だとButterflyくらい)。私はせっかちだからか、Andanteと指定された曲を弾くとどうにも速く弾きすぎてしまい、よく先生に直された思い出がある。そりゃそうだ、大切なのはその曲のよさを表現することだ。

音楽はそれでいいのだが、生活はどうだ、なかなかこうはいかない。音楽記号の指定する「歩くような速さ」に幅があることが、めちゃくちゃいいことに思えてくるくらいである。せっかちだという自負があったのに、それでも全然ついていけないぐらい、社会のスピードが速い。速すぎる。それは会社のことだったり、友人間のコミュニティの話だったり、住んでいる町のこと、ひいてはこの国のことだったりする。この前生まれたばかりだと思っていた姪っ子は、今年で5歳になるという。私も、頑張らなければ……何をだ……何かをだ……。

そんなときに『on the street』を聞くと、ちょっとだけ、肩の力が抜けた気になる。

いい人になりたい、と思った。j-hopeさん、BTSさんの活動を追ううち、自分の20代もこんなふうにできたらなあと夢見るようになった。

そして、その夢の何%かは実現できたのだろう。大学の同期と久々に会うと、「別人か思った、喋るまで気づかんかった!」と言われることが増えた。変わったらしいです。見た目も、雰囲気も、いろいろと。それはまあ頑張ったので嬉しい。

ただ、変わろうという努力をして(ある程度)変わることができた、という事実と、それで満足できるかということとは全く別物なのだった。周囲を見ると「変わったけれどここは変わっていないね」「いいところはそのままだね」そんな人のなんと多いことか。

一見変わらない人も、知らないうちに昇給したり家族ができたりしていて、こちらは焦ってしまう。かといって、自分の人生の目標が、出世や家庭をもうけることかと言われると、そうではないことに気づく。では自分はどういうふうに変わりたいのか? ……。

後のことを考えないで、変わることだけを目標にすると大変なんだなあ。

今回の楽曲は、j-hopeさんがかねてより敬愛されていたJ.Coleさんとのフィーチャリング曲ということで、J.Coleさんの遊びと浮遊感に溢れたフロウも聞くことができた。和訳を読むとドキッとしてしまうくらいの歌詞なのに、リズムは驚くほど軽やかだ。

彼の音楽や人生については、恥ずかしながらネットで聞き齧った程度の知識しかない。そんな中でも、彼のもたらしたヒップホップへの貢献を思えば、この楽曲が実現したことの重みがずっしりと迫ってくる。

on the street。j-hopeさんがかつて夢見た道に、J.Coleさんはいただろうか。

まるで背に翼が見えるような、軽やかな足取り。いくつかのインタビューで彼が話していたように、一見栄光に満ちたこれまでの軌跡は、そのぶんだけ悩みも多く、決して順風満帆なものではなかったかもしれない。人生が障害物のない一本道ならどんなによかったか。

けれどどんな迂遠な道のりも、まずは目の前の一歩から始まる。そうやって地道に生きていくしかないんだろう。MV中、煌びやかではないストリート、地下道を通って、j-hopeさんは歩き続ける。

そして、歩く速さは、人それぞれだ。

Everytime I walk, Everytime I run……今日も地道にひとつずつ、やっていこう。