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ロッテの歴史を学ぶスペースまとめ

キタトシオさん(@kitatoshio1982)からロッテの歴史を学ぶスペースを、2022年8月5日~9月9日まで全5回に渡って開催しました。
実際はオリオンズ史ということで内容は1950~1991年までの41年間となっております。

スペースをやろうと思った動機。
「歴史は繰り返される」

よく聞かれる言葉ですが、ロッテにおいても過去の歴史を知ることで長らく優勝できない理由に迫ることができるのではないか。
こう思い、キタトシオさんからお勉強させていただこうと考えました。

以下補足。
・めっっっちゃ長文の記事です。覚悟してください。
・本noteは、スペースで語られた内容に対し、僕の趣向や考察が混じったまとめ方をしたものになりますので、事実認識としては割合公平性に欠く部分もあるかもしれません。
・もちろん全5回分のスペースのノーカット録音のリンクも貼っています。最後の参考資料を参照ください。
・またスペース内での要点を追跡しやすいよう、重要だと感じたトーク内容とその時間も各リンクの下にメモしております。

略史

まず全5回分の内容から重要事項を抽出し、時系列的にロッテの歴史を超簡単にまとめてみました。

過去の反省とは

一言でいえばフロント機能が崩壊していた
オリオンズ時代の経営陣は何度も交代したが、いずれも下記の点で共通した経営努力の甘さがあったように思います。

(1) 自チームのことより球界全体の繁栄を優先する傾向
(2) ファンサービス意識がほとんどない
(3) 長期的視野に立てない
(4) 現場環境の整備にも改善意欲なし
(5) ドラフトで入団拒否続出。意欲ある監督も現れない。

意外にもロッテ史上初の最下位は1983年まで無かったわけだが、(1)~(5)の球団体質は創設当時から芽としてはあり、川崎に移転してから一気に連鎖して弱体化した構図に見える。結果、千葉へ移転する頃にはすっかり毎年5位か6位にしかならない暗黒チームになってしまった。

以上が、ロッテの過去における功罪と言えそうです。

過去の反省を生かせているか

これは僕の予想に反して、現在のロッテは過去の反省をちゃんと清算できてそうだということが分かりました。
キタさんのお話を聞くまでは、ロッテは優勝できない理由になる何か悪い慣習を過去からずっと引きずっているのではないかと思っていました。でも実際はそんなことはなく過去の失敗を繰り返さない為の経営努力がなされていると感じました。
以下では、先ほどの前章(1)~(5)項を軸にそれぞれ考えてみました。

(1) 自チームのことより球界全体の繁栄を優先する傾向

自分のチームのことに集中できていない、というのは近年のロッテではほぼないと言ってよいのではないでしょうか。(2004年の球界再編問題を機に、球界全体が健全な経営基盤を築くようになっていったことも大きく関係していると思います。)

(2) ファンサービス意識がほとんどない

このスペースをやったことで改めて思ったのは、みんな井口井口って言うけど結局すごいのはフロントだってことです。
「井口は監督としてはイマイチだけどGM的才能はある」みたいな論調、自分も普段から全然言っちゃってましたけど、よく考えたら『監督』以外の役職は付いていない以上、彼に与えられた職務範囲は基本的には現場だけのはず。編成や人集めに全く携わっていないとまでは思いませんが、松本本部長だっているわけなので、井口に大きな裁量が与えられていると考えるのは少々無理があるようにも思えます。要するに井口監督だけがすごい!と思われがちだけどそうではない、ということです。

ましてや今のロッテでもっともすごいと思うのはファンサービスだと思っていて、イベント企画力やボールパーク化への努力は大したものだし、チケット代をどれだけ値上げしても観客動員は不思議と減らない。過去のロッテからしたら信じられない進歩だと思います。そしてこういった経営努力が誰のおかげなのかと考えたら監督なわけがないので、必然的に今のロッテで本当に有能なのはその上のフロントなんだって結論になるはずなんです。

(3) 長期的視野に立てない

※訂正:永田オーナーの件は1950年ではなく1960年

1972年、大沢親分の「俺は5年後10年後にロッテ王国を築く」という発言は純粋に感激しました。こういうことを言った史実が過去にあったのだと。しかしその夢もフロントによってわずか1年で潰された。
あれから50年後の今、ロッテは当時以来となる常勝軍団宣言をしている。ましてや監督個人の発言ではなく公式主導での発信はおそらく球団史上初のはずです。

(4) 現場環境の整備にも改善意欲なし

有藤や村田兆治でさえも、待遇の悪さや球場や環境の劣悪さを理由にトレード志願していた事実はけっこう衝撃でした。
これに対し、今では石川 益田 唐川 荻野 等々、残ってくれる生え抜きは多いし美馬や福田秀などをFA獲得すらできるチームになってきた。たとえば近年は順天堂大学と組んでメディカルケア体制強化といった側面もある。これこそかつて石原春夫球団代表が目指した選手たちに気持ちよく働いてもらうことがフロントの仕事という精神(第4回 15:00~)が50年の時を経て今のロッテに戻ってきた印象があります。

(5) ドラフトで入団拒否続出。意欲ある監督も現れない。

過去にドラフト戦略や監督人事がうまくいかなかった原因も突き詰めれば、魅力的な球団づくりができていなかったことに収束すると考えます。
一方で近年のロッテがこの点を改善できていることは、ここまで述べてきたことからも明らか。またフロントと監督の関係を見ていても、方針の不一致や不和といった綻びは(表面上)見られない。大枠としては選手も含めた三位一体の球団づくりができてきているようには感じます。

もう一つ補足します。千葉移転後のドラフト野手戦略の話です。
ロッテは2000年代中盤から野手は即戦力重視の時代が続きます。その方針から久々に脱却したのが2015年の平沢獲得。その後、安田・山口・藤原・西川・山本斗…と高卒野手の獲得が続くようになります。しかもそのほとんどが力強いスイングが持ち味の主砲候補。プロスペクトの育成に本腰を入れたわけです。
昔のロッテのドラフト戦略の最重要課題は『選手に入団してもらうこと』という失礼ながら低次元なものだったわけですが、近年はもう入団拒否は基本されない地盤ができ、やっと段階を踏んで健全なピラミッドと育成戦略を立てることができる組織になった、という時代の変遷も見逃せない側面かと思います。

ではなぜ今も勝てないのか

というわけで今はロッテは、まともなフロントがまともな球団経営を行い、ファンもついてきていい選手も入ってきてくれるようになった、という過去の呪縛を見事に解いた球団になっている。と言っても良さそうです。

それでも優勝できない!なぜか。
これは選手個人成績に帰結するかと思います。特に野手。
1986年の落合博満以来、36年間も30HR日本人は生まれていない。これだけあまりにも長い期間突出したホームランバッターが出てこれないのは、もはや個人のせいではなく組織に問題があるに決まっている。

先にも述べた通り、近年のロッテはドラフト戦略で一定の進歩を収めており、安田・山口・藤原を筆頭に高卒長距離打者の獲得を継続できている。
しかし現状ではまだ一人も、長年のロッテの呪縛に風穴を開ける大砲にまでは育っていない。

その原因は育つ為の土壌・ノウハウ・環境がまだ十分に成熟できていないからだと考えます。
さらに掘り下げると二軍設備・属人性に頼らない管理的な指導法・最先端データの適切な解釈 など色々挙げられそうですが、試合における采配も大きく影響してくるポイントかと思います。

強風で飛距離を見込みにくい本拠地だからか、長打を捨てる戦術は多い。
山口や藤原にも自由に打たせることよりバントを選択。
バントや軽打の要求が増えるほど、せっかくの主砲候補もそういうレベルの打者に収まってしまいかねない。一流投手が相手でもしっかりHRを狙う力強いスイングを試合で継続させないで、主砲が勝手に育つなんて無理だからです。

若いうちからスペシャリスト化させてしまう方針も弊害を生みかねない。
周東はHR打てるのに和田はいつまでも打てない、
同じ論法で松川も打力強化に専念できる時がちゃんと来るのか怖い。
要するに、スモールな野球を目指す采配やチームカラーが個人能力の可能性を摘み取ってしまうと感じるわけです。これは井口監督に限らずロッテの伝統的な部分だとも感じます。

ただし言い方を変えれば、やっとそういう現場レベルのことを真剣に考えられる段階に来れたとも言えるわけです。
親会社がただ球団を持っていただけの過去があまりに長く、70年もやってるのに連覇の実績もない球団がいきなり継続的な強さを求めようにも、まだまだ現場レベルでそこまでに落とし込むには歴史と経験が浅いのかもしれません。

さいごに

ではロッテが常勝軍団になる為にはさらに何をしなければならないのか。
采配そのものの他に、前項で述べた通り『二軍設備・指導法・データの適切な解釈』といったあたりもキーにはなってくるかとは思いますが、深掘りは難しいのでまたの機会にできれば…と思います。

ひとまず僕なりに結論として言えると思うのは。

ロッテは過去の失敗を繰り返してはいない。そして過去70年とは違ってチームが強くなる方法を真剣に考えているように見える為、新しい歴史を歩める可能性は十分感じる。

といったところです。
以上、お読みいただきありがとうございました。

参考資料(全スペース)

スペース5回分のノーカットリンクおよび重要箇所を紹介していきます。
なお、太字で記したのは僕が重要と感じた箇所です。

第1回 1950~1957年 毎日オリオンズ

1950年
他球団からスターを集め結成1年目で日本一。(14:40~)
でも優勝したのに球団人気は思うように上がらなかった。理由は強すぎたことにあると上層部は考え、4番戸倉を阪急に無償放出。(31:50~)

1952年
通称平和台事件が発生し、かつての優勝監督だった湯浅は引責辞任。その後の低迷に拍車。(39:00~)

1953年~
なぜ弱くなったか。発足時に集めた主力が中堅ばかりだったのに、2年間補強をほぼしなかった。1952年に高卒は獲ったが年齢層に空白ができてしまった。(42:30~)
きっちりマネジメントする人間も、現場監督をしっかりする人間もいなかった。強いけど凡庸なチームだった。(54:20~)

第2回 1958~1970年 大毎オリオンズ

1960年
・リーグ優勝も、西本監督解任(24:50~)

1965年
・南海 蔭山新監督急死騒動(35:10~)

1970年
・濃人オリオンズ優勝(46:10~)

永田オリオンズの特徴…
・永田は短気・すぐに結果を求める・解任したがる・監督に直接電話して采配指示をする(42:10~)
・結果として、イエスマンばかりが監督にならざるを得ない(43:00~)
・監督がコロコロ変わるから、チーム方針や編成が安定しない。結果としてチームは混乱・空転し、1960年の優勝以来7年連続でBクラスとなる。(44:00~)

・オーナーは長期的視野を持った球団運営をすべき。(57:40~)
・最初から大監督と呼ばれる人もいないわけで、長期的視野に立って監督でさえも育てる心構えがあっても良い(58:40~)

第3回 1971年~ 金田正一とジプシーロッテ

1971年
・7月、放棄試合の引責で前年優勝の濃人監督が辞任。(7:15~)
・後任監督の大沢啓二が1971年オフに異例の5年契約。(13:20~)
・同時期に石原春夫が球団代表に就任(16:20~)
・石原は親会社社長の重光武雄から、大沢5年契約は中村長芳オーナーに勝手にやられたことで、重光としては本意では無かった旨を受ける。(20:30~)

1972年オフ
・東京スタヂアムから追い出されてジプシー状態に。(26:00)
・大沢監督が5年契約も1年目で解任(33:20~)

1973年
・新監督に就任した金田正一の人気は凄まじく、就任前後(1972~73年)でロッテの観客動員は31万人⇒94万人。パ全体でも254万人⇒406万人。黒い霧事件で低迷したプロ野球人気回復の盟主となる。(39:35~)
・西鉄との遺恨試合(55:50~)
・金田監督も永田元オーナーも(さらに言えば毎日新聞も)、ロッテの為というよりもパ全体の為、というのが前に出過ぎて、自チームへの強さの追求が足らなかった印象も感じる。(1:10:55~)

第4回  1974年~ カネやん優勝!そして川崎へ…

1974年
・石原代表の功績の1つに査定の適正化がある。(15:00~)
・リーグ優勝・日本一(24:00~)
・ロッテは日本一になるものの優勝パレードを仙台ではなく銀座で実施。これに仙台のファンはしらけ、以降観客動員は下降線に。(32:00~)

1975年オフ
・石原が球団代表を4年で辞任。ロッテにはかなり不満があった模様。(ここでご紹介いただいた石原の不満の声は個人的にめちゃくちゃ面白かったです)(36:55~)
・石原の後任となる西垣代表は国鉄の元監督。金田があてがった実質的な名誉職にも取れる。これにより「チームを支えるのはフロントで、選手監督と三位一体にならなければチームは強くなれない」と言った石原の理想は、退任後さっそく暗雲となる。(40:50~)

1977年オフ
・仙台から本拠地移転となる。突如だったこともあり、仙台のファンから反感を買う(46:15~)

1978年
川崎球場に移転。当時でもすでにかなり老朽化していた。(48:10~)

1979年
・新監督人事に本社筋は山内一弘を推したが、発表当日に重光オーナーが野村克也に面会・監督を打診。野村は辞退し山内監督誕生となるが、内部のガバナンスがいかに機能してなかったかが分かる。(56:25~)

1981年
・山内は契約を1年残し退任。待遇改善を求めたが通らなかったのが理由。(1:07:05)
・ロッテ低迷の理由の一つに、ドラフト戦略の失敗も無視できない。不人気すぎて指名しても入団してくれなかった。金田監督の横暴やジプシーの過酷さが指名選手たちの耳に届き敬遠されたことも一因と推察。辞退した中には石毛宏典・森繁和・川口和久もいた。(1:10:00)
選手が入ってこない状態がじわじわ続き、スター選手もいない、人気も上がらないし、川崎球場だし、フロントはめちゃくちゃだしで、暗黒の80年代に突入していくことになる。(1:15:05)

その他備忘
・金田もバレンタインも任期は6年。ロッテには名将型というよりも一発起爆型の方が合う、ということは言えるかもしれない。(1:20:55)
大沢親分が5年契約を結んだ際に「俺は5年後10年後にロッテ王国を築く」と発言(1:23:30)

第5回 1982~1991年 オリオンズの終焉

1981年オフ
・山内退任後の監督探しは難航。本来は誰もがやりたい職業のはずなのに。(12:00~)

1986年オフ
稲尾監督が退任。福岡移転計画の足踏みが背景にある。(33:00~)
・有藤も本当は監督をやりたくなかった(36:15~)
ロッテは川崎市に球場の改善を再三打診したが通らず。(45:30~)
 ↑ちなみに川崎球場の劣悪さを7分くらい延々と語ってますw

オリオンズ史を振り返って…
・ロッテは1971年以降もっとも球団を保有している最古の親会社なのだが、70~80年代にかけてはただ持っていただけだったのではないか(1:05:00あたり)
・愛甲は川崎時代を振り返り「これ以上ないくらい練習した。とにかく走ったし腹筋もした」と言ったものの、その一方で西武はひたすらフォーメーションの練習をしていた。努力の方向性が間違っていた。(1:11:15)

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