神様の道具

つい先月、留学へ行ってきた。留学先はアメリカのボストンという街だ。
留学にあたり、トビタテJAPANという文部科学省と民間企業の官民協働による支援プログラムの経済的援助を受けた。このような貴重な機会をいただけたことを深く感謝している。

さて、このトビタテJAPANではいくつか参加必須の研修が用意されており、先日そのうちの事後研修というものに参加してきた。ここでは自分の専門分野以外の、実に多様なバックグラウンドを持った同志と交流する機会がたくさん設けられており、自分としても視野を広げるとても楽しく有意義な時間だった。

色んな人から色んな質問を受けたが、やはり「どうしてお医者さんになろうと思ったの?」といった類のものが頻度として最多だった。
この返答には、かなり難渋した。というのも答えが明確に一つあるわけではないからである。そもそも皆がイメージして質問しているであろう臨床医と、自分の進路である研究医というものの間にかなりのギャップが存在しているであろうということはこの際置いておこう。

しかもあのような賑やかで皆が目を輝かせているような場において、「本当は研究医を目指して東大医学部に行きたいと思ってはいたが学力が思うように上がらず、東大他学部と他大医学部を迷った際に、医師免許という最低限のセーフティネットは研究者として生きていく上で自分にとってマストだったからだ」という早口はもちろん求められていない。例えばファッションを専攻する女の子みたいなタイプもいたし。

それでは、何と答えるのが正解だったのだろうか。

思えば、医学部に入ってから6年の歳月が流れた。その間に、本当に色々な事があった。共に医者を目指していた友達がクローゼットで首を吊っているのが見つかったり、はたまた別の友達がいきなり逮捕されて4年ほど実刑判決を食らって塀の中に収容されたり。

俺が思うに、人は誰しもカルマと呼ばれるものを背負って生きている。そしてその人が生きている限り、それは常について回る。
「捨てられないからカルマなんだぜ」
これもまた別の友達の言葉だ。
ではカルマとは何なのか。

言い方を変えれば、我々は神様の道具であるいうことになる。少なくとも僕の解釈では。
我々はこの星で生きている限り、それぞれが何かしら神様に与えられた使命というものを持っている。
それが何なのかはその人にしか知り得ることはないし、もっと言えばその人が自分の使命をしっかりと認識しているのかどうかもまた別問題だ。

僕は、自分の背負っているカルマと、何の使命を神様から与えられてこの星で生きているのかを6年間考えた続けていた。
明確な答えこそ出なかったが、現時点で「多分その先に答えがある可能性が一番大きい」と思う道を選択するようにしている。

短い人生ではあるが、生きている間くらいは、自分のカルマの重みを背中に感じながら、神様の道具として自分の使命というものを果たしていきたいと願う。

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