絶望の庭

自分をそのまま物語にできたらいいのにと思う。それを人は私小説と呼ぶのかもしれない。月に一回はそういう心持ちになる。なんだか自分がとても不憫なもののように思えるからだ。とても可哀想で、慰めてほしくて、でも誰も慰めてはくれないので、自分で慰めるために物語にするしかないと思うのだった。だけど、そんなことをしたら私は削れて死んでしまう。自分を物語にしたいと思うときの私の原動力は憎しみだ。だからもう少し年をとってからにしよう。年をとったら、自分を物語にしようなんていう気持ちが薄れているかもしれない。そうしたら削れなくて済む。憎しみは自分が一番、削れる。

好きな漫画で「絶望の庭」という短編がある。主人公はゲイの小説家で、恋人や母親や昔好きだった人に再会したりするお話だ。とっても短いけれど、得も言われぬ哀愁ただよう主人公が好きだ。彼は相手に伝えたい言葉、言いたい言葉、でも伝えられない言葉、言えない言葉があったりすると心の「絶望の庭」に言葉の種を植えるのだという。言葉が伝わらない絶望や言えない自分への絶望が埋まる庭に植える言葉の種。このお話が好きでよく思い出しては、私も自分の絶望の庭に何を植えようか考える。

言葉の種。絶望とか。寂しさ。孤独。憎しみ。削れた自分のかけら。なんだかその他もろもろ。

それらがいつか芽を出して花を咲かせるとき、うつくしさが私の原動力となっていることを、願いたい。