すぎゆく

時間は過ぎてゆく、ということを、うっかり忘れていて、うっかり思い出す。そうやっていつのまにかこんなに大きくなっていた。

二十数年生きてきたという重みよりも、まだこれから何十年と生きていくのだろうという、背負っていくべき重荷に戦いている。それでも時間は等しく過ぎていき、望むと望まざるとにかかわらず私はこれから何十年を、何十年かけて生きていくのだと思う。そういうことを、ふと、帰り道の交差点で思った。好きな洋楽でノリノリになっていたら思い出してしまったので、なんだかこのまま空の彼方まで車で走り去りたい気分になった。

少し前までこの仕事が嫌だとかあの書類がダメだとかそんなことを憂いていたのに、その仕事はもう終わってその書類はどこかに綴じた。今はもう、違う嫌な仕事が、書類が、私のデスクに散らばっている。時間はどうしたってすぎてゆくものなのだなと、渦中にいるときは思い出しもしないのに、過ぎた後には思い出す。

どこかにも書いた気がするけれど、思い出を思い出として思い出すほど思い出が少ない幼い頃、思い出を思い出す時には、例えばドラマや小説とかの回想シーンみたいに、同じ出来事を追体験するほどはっきりと生々しく思い出すのだと思っていた。その時の一言一句を思い出すとか、息遣いとか、においとか、風の流れとか。
でも、思い出が思い出として思い出すほどには大きくなって知ったのは、そうでないということだった。過ぎたものは通り過ぎた場所にあって、そこに戻るのは至難の業だ。だからかけらしかない。そういやそんなことあったな、ぐらいの、感覚で。かけらを見てもあまり思い出せない。思い出そうとすればするほど薄れてゆく。
だのに、思い出そうとしていない瞬間ほどぐわりと感覚が蘇る。一瞬間のうちに、何年分かの感情を追体験する。それが儚くもあり怖くもある。自分の、中身が、確認できないと思う。だから必死になって、こんなふうに言葉を残しておく。

でもきっと、これもまた、過ぎていく時間のひとかけらだ。来週にはもう、この気持ちなんて思い出せないんだろうな。でもきっと、数年後にこの気持ちを味わう時があるかもしれない。その時の、私は、このnoteを見返すだろうか。