荒療治

何か言葉にしたいとか、誰かにかまってほしいとか、そういうことをよく思うけど、そういうときって大体何も上手くいかないことがわかっているので黙るようにする。けども、やっぱり欲望には勝てないので言葉をどうにか絞り出して誰か一人の目に留まればいいな、なんていう、あんまり大したことない願いに押しつぶされそうになりながらいくつもの夜を越えていく。そうしたら、いつのまにかもう、こんな歳になっていました。

たまに自分の心は自分が思う以上の歪さと頑固さをもって、奥底に鎮座しているときがある。頭ではどうして、と思うことも、心が頑としていやがるなら私はそれに従うしかない。今日は、誰に何を言われても楽しくなくてただただ悲しい一日だった。でも、二週間に三日はそういう日が来るから、もう定例的なものになっている。といいつつも、その日の寂しさとやるせなさと憤りは相当のものだ。どれだけ経験しても、うすうす予想がついても。

色々なものを、視線を、感情を、分かち合えたらいいのかと思うけれど、分かち合えたらその時はまた、分かち合えた悲しさが私を襲うのだろうし、きっと分かち合えることなんかこの先万が一にもないのかもしれない。それはもう、宇宙が生まれたときほどの確信を持って、思う。この人とならきっと、と思った次の瞬間には、この人も駄目だ、と、簡単な○×テストをしてしまう。拾い上げるのは最初の一回だけで、その後切り捨ててしまえば私の手は何の役にも立たない。拾い上げることができない、ゼラチンのような手だ。

毎日毎晩荒療治のように、好きなもののことを考える。そうしてまた、悲しくなって、満たされて眠る。寂しさは毎日真新しく、悲しさは美しく私を染め上げる。そうであってほしい。