ドラマチックに生きる

よく一人で意味不明な瞬間に感極まって泣きそうになる。たとえば、別の課のちょっと嫌な上司の話をしているときに、もし自分がその人の下で働くことになったら、と考える。今でも、違う課なのに結構いじめられるので同じ課になったらコテンパンになるだろうな、と思って、そうしたら私は誰かにちゃんと訴えられるだろうかと想像する。できるのか、できないのか、わからないけれど、そんな状況に追い込まれたら自分がとっても可哀想だなあ、と思ってちょっと泣きそうになる。そんな具合だ。親に、本当は言いたいけど言えないことがあったときに、でも、もし、その言いたいことを本当に言ったとしたら、私は泣いてしまうだろう。それを考えて、なんだか泣けてくるのだ。考えなくてもいいタイミングで良く考えて一人でしょんぼりしている。でも、そういう瞬間を考えるのはなんだかちょっと、ドラマチックだ。本当なら、打ち破れない壁を、妄想の中の私は、いともたやすく超えていける。劇的に生きている。涙を流したり思いきり誰かに恋をしたりよりかかったりして、生きる。そんな、仮想でも、そういう自分がいつか生まれるかもしれないことに、感極まっているのだった。なんだか言葉にすると寂しい人みたいだな。私はとってもドラマを感じているのだけど。

年末になると、クリスマスとかお正月とかの小物が町中に増え始める。見るのは楽しいし、この雑貨はあの子に、あの雑貨はこの子に、と考えるのが楽しい。中々あげる機会がないけれど、プレゼントしたときのことを考えるとちょっとわくわくする。そうして、いつもありがとうという気持ちを伝えたいな。思い出はいつもドラマチックだ。妄想なんかよりも、断然美しく縁取られている。一緒に暑い夏にキムチ鍋を食べたこととか、白い息を吐きだしながら凍る道路を歩いたこととか。半分絵画のようになって心に仕舞われていて、思い出すとやっぱり感極まってしまう。

ふ。私の中にはドラマがたくさん詰まっている。