うそつきと答え合わせ

答えがほしい、と思うことがある。それは、色んなものことの、世界の、総括的な答えでもあるし、小さなものごとそれぞれの答え。なんでもいい。私を納得させてくれて、ぐっすり眠らせてくれる答えがほしい。

先日、上司につれられておじさんばかりの飲み会に行った。女性は私と私の同期の子だけで、あとはみんなおじさんだった。おじさんたちは酔うとけらけら笑って、昔の話を何回も繰り返して、またけらけら笑う。日中にそんなこと言ったら職場が凍りつくような下ネタもたくさん言う。そうしてまた、けらけら笑う。おじさんたちは、自分たちが肉体労働で生きてきたことを誇りに思っていて、よく陽に焼けた顔はまぶしく光る。私の方が、もちろん学歴も上だし頭も良いと思う。だけど、そんなことなんておじさんたちは歯牙にもかけないでよく飲み、大声で話し、楽しそうにしていた。でも、本当はそういうことが、答えなのだと思う。

どうやったら自分の気持ちが言葉になるのか、どうやったら感受性を失わないでいられるのか、雨の音を聞いて泣き、秋の香りに心を痛める。何かを表現することを至高の喜びとし、文字にならないときは苦悩して、四季おりおりの感情をこの胸にとどめようする。でも、そんなことは、本当は、どうでもいいんだ。わざわざそんな風にしなきゃ、そういう風になれないんだったら、もう、全部、捨てちまえばいい。おじさんたちは、きっと、そんなこと考えたことがない。だってもう、おじさんたちは、知っているからだ。体にしみこんでいて、その土台のもとにおじさんたちがいるからだ。私のように、うじうじと白い顔なんかしていない。おじさんたちの肌には、その色には、すべての答えが詰まっている。

私は、うそつきだ。なんでも、見て見ぬふりをして、知っているふりをする。答えを知っているくせに、知らないだのとうそぶいている。

ねえ、誰か、答えあわせをしよう。うそつきにも、丸をください。