しらないしあわせ

私のしあわせはどこに隠れているのだろう、と、ぽっかりと開いた穴のような夜に考える。
みんなしあわせになりたいという。私だってしあわせになりたい。だけど、そのしあわせ、ということの意味を、誰が知っているのだろう。知っている人がいるのだろうか。

しあわせってなんだろう、とかいう、宗教じみたことを考えているわけではない。だけど、こうして一人でパソコンに向き合っているとき、疲れ切って家族とも話ができないとき、職場で孤立しているんじゃないかと不安になるとき、いつも、どこでも、しあわせ、という、四文字が頭をよぎる。

大切な人と一緒に笑うときとか、熱めの風呂に浸かるとき、あたたかな日差しの匂いがする布団にくるまれたとき、言葉にならないほど美しい景色を見たとき。それは、そのときどきで、しあわせを持つ。だけど、たまにさびしさやむなしさがしあわせを覆い隠す。見えないようにしているのか、覆い隠されているからこそ、しあわせという意味をもっているのか。

なんだかとりとめのないことを考えている。
しあわせだなと思う瞬間、それがほんとうにしあわせなのか、わからない。なんならふしあわせの方が好もしく思えてしまうときもある。しあわせになりたいといいながら、ふしあわせに惹かれていく。
しあわせは、いつか、たった一瞬のために、とっておかねばならないのではないかという、意味のわからない気持ちを持ち続けている。そのためだけに、しあわせを、使わないようにしている。

そんな日が、くるのか知らないけど。