右足の中指

足の指は、たまに存在を忘れている。もちろん、指がないと歩けないというのは知っているし、私の大切な体の一部だ。だけど、手の指よりも認識する度合は格段に低い。足の指の爪がけっこう伸びていてもあんまり気付かない。特に右足の中指は、他の指よりも妙に伸びるスピードがはやく、はやいとわかっているくせに、切るのを忘れる。そうすると、隣の人差し指に食い込んで、たまに血が出ている。どうでもいいわけではないのだけれど、体の一部分として認識をする度合が低い。その他大勢、とでもいうのだろうか。

付き合いの長い先輩が、私が人づきあいで悩むのを見ていたとき、「君は人に対して一生懸命だから疲れるんだね。好きとか嫌いに振り分けないで、その他大勢にできないの、みんなに好かれるとかって無理だし、僕はそう悟ってからは気が楽になった」と言った。
彼が言うこともわかる。私にだってその他大勢の人はいる。それでも、関わりを持ってしまったら、私はその人と一生懸命に付き合いたい。好きでもなく嫌いでもないからといってその他大勢にも振り分けないでいたい。その人に思う、もろもろの感情を、私の言葉で大切にしまっておきたい。その他大勢の人にしてしまったら、きっと、もったいない。

人付き合いを大切にしたいというよりも、自分自身がその他大勢でいたくないから、そういう風に思うのだろうと、最近気付いた。

もちろん、先輩が言うように、みんなから好かれるのなんて絶対に無理だ。それは私もわかっている。私だって嫌いな人がいる。嫌いな人がいる人が、みんなに好かれるなんて、無理だし、人を好きになることも嫌いになることもしごく自然のことだから、わかっている。そして、わかっていても、誰かに良いと思われたり好きだと思われたいと思うのは、それも、ごく自然のことだろう。悟る、という言葉は、あまり好きじゃない。悟る、は、諦めて、それで、頑張っている人をあざけるような響きを、感じる。どうしてかは、わからないけれど。でも、先輩が、それで楽になったのなら、それはそれでまた、正解なのだろう。先輩を否定する気もないし、切実な思いなのもわかる。

人づきあいは、面倒だ。傷つけられないようにその他大勢にすることも、できるのかもしれない。
だけど、右足の人差し指が傷つけられて、その他大勢だった中指の爪の長さに気付くように、きっと、気付く。気付きたい。気付いてほしい。
私の意味や誰かの意味に。