ViANKiEの歌声に関する所感

 以前に記してから一年を経てViANKiEに対する印象は大分かわった。
 ViANKiEとしてTwitterに綴られる日々の事や、そこでの様々な交流はViANKiEの存在の解消度をあげているのは間違いない。
 だがなんといってもこの1年で彼女はかなりの数の歌を積み上げてきた。

彼女の歌は

 Vとして活動する以前からも会わせると彼女の歌は、この一年でかなりの数になった。
 私見ではあるが、初期に上げられた歌は落ち着いた感じの曲が多かったように思う。
 その時に私は彼女の歌に詫びや寂びの妙を見出だしたわけだ。
 しかし、今では様々な曲を歌い、その度に新しい一面を見せてくれる。

例えば、パプリカでは明るく朗らかな


例えば、吉原ラメントでは婀娜っぽく、物憂げな

 こうしてみると、私が最初感じた侘び寂びは彼女が持つ属性ではない、とすぐに気づかされた。
 そこですごく疑問に思ったのを覚えている。こんなにも明るくて開けた感じの人がなぜ正反対の感情を見事に歌い上げられるのか、と。

名俳優の条件

 ところで私は映画をよく見る。役者にも様々なスタイルがあるものだ。
 名優の条件は評価者によりけりだと思うが、私が思う名優と言われる者達は役に入り込む。
 役にたいする文脈的な理解は勿論だが、なにより大事なのはその役の感情を解釈し自分に落とし込む能力だろう。
 そこで思うのは、+と-両端の感情を解釈するためには大きな感情がなければ難しい。
 1は10に含まれるが、1は10を含まない。
 例えば、「寂しい」という感情は元から孤独な人間には極当たり前の事でなんの事でもない。しかし、孤独になった人はどうだろうか。
 寂しいという感情はその数字の落差が生む痛みである。
 プラスからの喪失を想像できなければ「寂しさ」の本質は理解できないわけだ。
 だから名優達は役にするりと入り込み、別人を演じる上でまず大きな感情がなければならない。
 これは私の持論でしかないが、役者は究極的には感情を演じるものであると思う。

私から見るViANKiEという歌手

 彼女の歌を聞くと、時折その歌の主体が思い浮かぶことがある。


 例えば、夜行では暮れなずむ夏の野原に一人微笑みながらたたずむ少年の姿が。
 それは彼女が歌に入り込んでいるからではないか、と思う。
 それもごく自然に。歌をよく理解して、そこにある感情に入れ込む、まるで名優のごとく。名優たるは豊かな感情があってこそなのだ。
 歌と歌手が一致しているからこそ、その在り方が自然で、共感できる。だからあれだけ見事な技量を持ちながらも、まるで聴衆に寄り添うがごとく聞こえるのだろう。

ViANKiEの可能性

 ViANKiEは歌の活動だけで、ここまで来ている。それはこの界隈でも稀有な事である。それはつまりまだViANKiEには様々な活動の可能性が残っている事でもあるわけだ。
 これからどこで何を歌うのか、誰と出会うのだろうか、なんといってもまだ一年目である。

「多くの女優が行っているが、あなたは顔の皺を除去する整形手術をしないのか」という記者の質問に、その女優は、「この皺は、苦労して手に入れたのよ」と笑って答えていた。      ーマルドゥックスクランブルより

 役者というのは若くても老いても、それぞれに味があるものである。
 ViANKiEはこれから様々な経験を積み、どれほど成長を遂げるのか。
 ViANKiEという底知れない歌手から是非目を離すべきではないだろう。

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