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「人権意識」や「正しさ」をアピールする人種が敬遠されがちな理由についての個人的な見解


 某アンソロジーの、悪い意味での盛り上がり方がえらいことになっている。
【6/7追記:まさか一ヶ月も経たんうちに二匹目のドジョウが出てくるとは思わなかったが、これは最初にあったnmmnの方のアレコレを見て書いた】
(何の話題かわからん人はここでブラウザバックして忘れてください)
 そのアンソロの是非についてはXで散々議論されているので、この記事で特には言及しない。
(ただ、主催が「反差別の人間が集まって書いたものであり、政治的な内容があるわけではない」的な釈明している割に、一部の執筆者が「バチバチのフェミニズムを書きました」とか「もっと政治色高い内容にすればよかった」とか言ってるので、主催の態度がシンプルに不誠実である可能性が濃厚だと思う)(だとしても、誹謗中傷や晒し行為については反対の立場であることを述べておく)
 なのでこの記事では、タイトル通り己の「人権意識」や「正しさ」をアピールする人種がなぜ敬遠されるのかについての個人的見解を、今回の件で見た「実例」を交えて書いていく。

◆個人的に思う「正しさ」「人権意識」をアピールする人種が敬遠される理由4選

①「自分は反差別主義者なので、自分の意見に反対する者は差別主義者である」という安易なレッテル貼りをしてくる
②「自分は正しく高尚な思想を持っている」というスノビズムが垣間見える
③政治参加意識や人権意識が高いように見せかける割に行動が伴っていないように感じられる
④そもそも人権意識が真に高いようには見えない

 大まかに挙げるとこんな感じになる。個人的な見解ではあるが、同じように思っている人はそこそこいると思う。以下に更に具体的な見解を述べるが、①と②、③と④は同カテゴリの話なのでまとめて記述する。

・①&②について

 今回の案件についてXでちょっと検索しただけでも「反差別を批判・反対する奴は親差別(差別主義者)である」みたいなレッテルを貼るpostがたくさん見受けられる。「反差別」を掲げる側からすると、こういったレッテル貼りは「相手の反論を封じられる」「相手の思想を正しくないもの・劣ったものとすることで、自分たちの道徳的優位性を示すことができる」「加えて自己顕示欲も満たされる」とメリットしかない行為である。しかしその一方で、そういったレッテル貼りを繰り返すあまり、「人権意識」の高い人たちは相手の意見に耳を傾けたり対話する能力や、自分たちを省みる能力、また説得的、論理的な論陣を組み立てる能力が培われていない状況に陥ってしまっているように思える。その結果「人権意識」の高い人たちは「差別は良くない」「全ての差別に反対」などの原則論を唱えることしかできなくなってしまっていて、これはあまり健全ではないように見える。(これは③と④にも関わってくる内容である)

 そうでなくても、自分と異なる意見を持っていたり自分に賛同しない人に対して「差別主義者」というレッテルを貼ってきたり、劣った考えを持っていると見做してくる人種がうっすら敬遠されるのは、そこまでおかしい現象ではない。どんなに正しく善良な思想を持っていようと、他者に対しての尊重を欠く者はただ独善的なだけであり、疎まれるのは至極当然の結果である。

・③&④について

 先ほども少し書いたけど、X上で「反差別」を掲げたり高い「人権意識」を持っている人が口にするのは原則論でしかないことが多い。原則論しか口にしないというのは、悪意のある書き方をすると「その政治思想を元にした現実的な提案や擦り合わせは他者に丸投げする」ということだと思う。まあ本邦は間接民主主義をメインで採用しているので、他者に現実的な提案や擦り合わせを丸投げしているのは国民のほぼ全員がそうであるので、それ自体は悪いことではない。しかし他者より政治への興味・関心があったり「人権意識」を高く持つ自負があるのなら、その丸投げに対して自覚的であった方がいいんじゃないかなと思う。あくまで個人的な意見だけれど。

 というか、Xにいる政治参加意識や人権意識が高い人種が政治的な活動と称して行うのって大体

・選挙が近くなったときの投票の呼びかけ
・パブリックコメント送信の呼びかけ
・ハッシュタグデモやオンライン署名への参加・またはその拡散や呼びかけ
・政治思想を込めた作品制作、公開(今回の件とかプライド・フラッグを掲げたファンアートとか)
・腐女子への「腐やNLを使わないようにするべき」「BL作品を作るなら同性婚支持を表明するべき」等という呼びかけ

 これらに集約されると思うんだけど、この中で真っ当に政治的な活動と呼べるのって投票やパブコメ送信の呼びかけくらいしかない気がする。
(オンライン署名を『真っ当』の側に入れなかったのは反インボイス運動の顛末を踏まえてである)

 下二つは草の根的な活動のつもりなんだろうけど、①&②の項で書いたように、それらの活動に懐疑的な人に対し、人権意識高い人たちが差別主義者とか政治参加意識が低いみたいなレッテルを貼っていく事例がめちゃくちゃに多い。ただでさえ下二つはだいぶ回りくどい手法なのに、草の根を枯らしたら何の意味もないと思う。

 そして、腐女子への「同性愛差別に繋がるから腐やNLという表記を使わないようにしよう」という呼びかけについて。これは私の経験だが、かつて懐疑的な意見を述べたゲイ当事者がその呼びかけた張本人にブロックされた上で非難されているのを観測して「この呼びかけていた人たち、真に人権意識が高いわけではないんだな」と感じたことがある。それ以降、高い「人権意識」を持った人種のことは割と冷めた目で見てしまうようになった。

 そうやって順当に草の根を枯らしていった積み重ねとして、今回でいうと「反差別」という思想やそれを掲げる人種に対しての不信や反発に繋がっているんだということを理解してほしい。本当に。

◆上記を踏まえてのまとめ

 今回の案件で言うと「反差別」のような、己の「正しさ」や「人権意識」をアピールする人達+そういった人達の使うワードの信頼やイメージはだいぶ毀損されている。それらを毀損してきたのは、他ならぬ「正しさ」や「人権意識」をアピールする人達自身であることを自覚・理解するべきであり、信頼回復に努める義務があると思う。

 また「反差別」のような正しさ溢れるポリシーを掲げているからといって、その人間や集団が必ずしも高い人権意識を持っているわけではないということはもう少し知られてもいいと思った(社会運動標榜ゴロやエセ同和行為等)。そういう観点からしても「正しい思想に異を唱える奴は悪人である」みたいな二元論はかなり害悪なものである。異なる意見を持つ他者は敵ではなく何らかの形で共存する存在であるということを、今一度忘れずにいたいと思う。

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