現代思想を学ぶ理由 (現代思想入門より)

なぜ現代思想を学ぶのか


ここで言う「現代思想」とは1960年代から1990年代を中心に主にフランスで展開されたポスト構造主義を指しています。
ポストとは「後」という意味で構造主義の後に続く思想ということです。

哲学を自ら好んで学ぼうとする人は、かなり珍しいと思います。
ただ、学ぶことで得られる効用は確実に存在します。

著者の千葉雅也は現代思想を学ぶことで、「複雑なことを単純化しないで考えらるようになる」と言います。

それはつまり、単純化できない現実の難しさを、以前より「高い解像度」で捉えられるようになるということだそうです。

著者が前提として提示する価値観あるいは倫理は、
「世の中には、単純化したら台無しになってしまうリアリティがあり、それを尊重する必要がある」というものです。

私は上記の前提を提示された時点で「まさにその通りだな」と賛同できたのですが、皆様はどう思うのでしょうか。

自身の経験則しかありませんが、人間の殆どは単純で簡単なものが好きです。表面の結論だけを掬い取り、そこに至るまでの導線を考えようとはしません。これには現代の虚無的な多忙性が大きく関係してると感じています。虚無的な多忙性というのは、私が勝手に命名している「即時性の娯楽を常に浴びんとする欲求と暇への不耐性のことです」これだけ見てもかなり伝わりづらいと思うので、どこかの機会で詳細を説明するつもりです。

少し話が逸れましたが、まさに日頃から導線を考慮しない人々からすれば、著者の提示する前提はかなり不可解なものに映るかも知れません。

そのような人々のために、著者は現代思想の有用性をより噛み砕いて説明しています。

現代は治安維持、安心、安全の確保が主な関心となっており、時代の大きな傾向として、一層の秩序化、クリーン化に向かっている。企業だけでなく、我々個人の私生活においても「コンプライアンス」を意識せざるを得なくなった。整備することにより良い面も勿論あるが、生活が窮屈になっていることも否めない。

必ずしもルールに収まらないケースやルールの境界が問題となるような難しいケースが無視されてしまうことが屢々あり、例外性や複雑さは無視され一律に規律を増やす方向へと単純化されてしまう。

その際に個別具体性は無視され、人生の多様性を奪われてまう危険がある。
様々な管理を強化してくことで、誰も傷付かず、安心、安全に暮らせるというのが本当にユートピアではないだろう。

犯罪の抑止等を考慮すると、秩序を作る思想は必要だが、
もう一方で秩序から逃れる思想も必要だというダブルシステムで考えるべきだ。

少し長くなってしまいましたが、これらがざっくりとした著者の主張です。

そしてそんな状況だからこそ、現代思想が有用だと言います。

現代思想は、秩序を強化する動きへの警戒心を持ち、秩序からズレるもの、すなわち「差異」に注目します。排除される余計なものをクリエイティブなものとして肯定するのです。

逸脱にクリエイティブが宿るという考え方は現在では少し浸透しているかと思います。まさに人生の多様性を守る考え方ですね。

全てを管理しようとすればするほど、わずかな逸脱可能性が気になって不安に駆られてしまいますが、秩序の撹乱を気にしなければ不安は鎮まっていきますよね。

とても雑に表現すると、とても綺麗な部屋にいると落ちてる毛髪1本でも気になるけど、普段生活している街中で落ちている髪の毛を気にすることなんて殆ど無いよね。そんで社会が常にとっても綺麗な状態で在ることは有り得ないため、多少の逸脱は前提としてそれなりに寛容に物事を考えようよって事です。

我々が恋愛や結婚するのは、他者が自分の管理欲望を撹乱することに安らぎを見出すからで、秩序を作るというより、撹乱状態と生きていくことが必要だからなんですよね。

秩序からの逸脱というと、暴走する人を称えているようですが、そうではなく、自分の秩序に従わない他者を受け入れることを意味します。

我々は他者と生きています。どんなに主体的に生きていても、他者に主導権があり、それに振り回されることもしばしばあります。それが嫌なようだけど、そこに楽しさもありそうです。

能動性と受動性がお互いを押し合いへし合いながら、絡み合いながら展開されるグレーゾーンがあって、そこに人生のリアリティがある

そんなことも現代思想は教えてくれるんです。





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