近代的有限性

18世紀末に、哲学とは「世界がどういうものか」を解明するのではなく、「人間が世界をどう経験しているか」、「人間には世界がどう見えているか」を解明するものだ、という近代哲学の方向性が定められました。

これは、カントの「純粋理性批判」によるもので、哲学者も含めて我々は人間であり、人間が分析できるのは「人間が認識していることだけ」だ、という主張がなされます。

人間に認識されているものを「現象」と言います。そして、現象を超えた、「世界がそれ自体としてどうあるか」は分かりません。この、それ自体としての存在を、カントは「物自体」と呼びました。

人間にはフィルターのようなものが備わっていて、それを通してしか認識できない。フィルターの外れた世界がどうなっているのかは分からない。このフィルターをカントは「超越論的なもの」と呼びました。

人間はまず、色々な刺激を「感性」で受け取って知覚し、それを「悟性」= 概念を使って意味付けします。この感性 + 悟性によって成り立っている現象の世界では、物自体は捉えることができません。

しかし、それでも物自体を目指そうとするのが「理性」である。
(しかし物自体には到達できない、故に理性に関する難問が生じる)

人間が考えられるのは「考えていること」だけで、
となれば本当の世界はどうなっているのだろうか?
全ては自分が見ている幻で、実は自分1人しか存在しないのでは?
といった、いかにも哲学的な問いが生じたのも近代なのです。

それ以前は、思考に対する事物の現れ、即ち「表象」と、事物それ自体とを区別することなく、事物を思考によって直に分類整理できる、という時代でした。この時点では、表象と事物がズレているという意識が無かったのです。

そして、表象と事物という二元性は、人間自身にも跳ね返ってきます。

事物とは、表象空間の外部にあり、事物それ自体の厚みに中に引き篭もることによって、認識に対して決して完全に与えられないものになります。

表象から一歩退いた場所に措定された事物が、まさにそのことによって、あらゆる認識の可能性の条件として自らを差し出すことになります。

自らを示すと同時に隠す客体、決して完全には客体化されぬ客体への無限性が出現することになったのです。

今や、探求すれば探求するほど「かえって謎が深まる」ことになりました。
思考と事物を隔てるどうしようもない奈落を埋めようとして埋められないというのが近代的な無限性なのです。

そして更に、このようなネガティブなものの力が承認されると共に、そうした力によって魅惑される者、そうした力に絶えず呼び止められる者の存在が浮上してくるといいます。真理を常に取り逃すという点において自らの有限性を示すと同時に、まさしくその有限性ゆえにその真理に向かって普段に歩み続けるものとしての人間、根源的に有限な存在としての人間が登場するのです。

より砕いて説明すると、「真理に向かおうとするが、決して辿り着けず、その真理への到達不可能性によって牽引され続ける」ということです。

人間の思考は、常に闇を抱え込むようになった。
思考において、思考を逃れるものが生じたのです。

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