儀礼による有限化

ルーティン作成としての秩序化は、人間が「本能で動く動物になり直すこと」だとも言えます。これは千葉雅也による一種の捉え方です。
動物の場合は、何も強制されていなくても最初から決まった行動がとれますが、人間の場合には外からの「構築」が必要になります。
第二の自然をつくります。

これまでに人間は、ルーティンを複雑化させていきました。学校で制服を着るとか、教室で黙々と先生の話を聞くとか、皆んなで行進するとか、音楽の時間に全員で同じ歌を歌うとか、我々は意味のわからないような共通行動をさせられ、それを嫌々ながらも受け入れます。

しかしそれは、ただ嫌なだけではなく、例えば合唱コンクールで一糸乱れぬパフォーマンスを行うことに青春の感動があったりします。

これは、フーコーが規律訓練として批判的に問題にした箇所ですが、今回はそのポジティブな側面に触れてみます。

人は規律訓練を求めます。なぜか。認知エネルギーが溢れてどうしたらいいか分からないような状態は不快であって、そこに制約をかけ自分を安定させることに快があるからです。しかし一方で、ルールから外れてエネルギーを爆発させたい時もあるわけです。

例えば、暴走族はルールを破って駆け回りますが、その内部には厳しい上下関係があったりします。ですから、エネルギーを解放する方向と、エネルギーを制限し有限化する方向の両方が見られるわけです。

これは、あらゆる組織的活動だけでなく、個人的に生活を律するときにも言えることです。

ここで登場するのが「儀礼」というキーワードです。
ルーティンというのは儀礼です。
なぜそのようなことをするのか、その根本の理由が説明できない、単にドグマ的でしかないような一連の言葉や行為のセットのことです。

人間は、過剰な存在であり、逸脱へと向かう衝動もあるのだけれど、儀礼的に自分を有限化することで安心して快を得ているという二重性がある。

どのようなことでも、エネルギーの解放と有限化の二重のプロセスが起きている儀礼である、という見方をすることで、ファッションや芸能や政治など、様々なことをメタに分析できるようになります。

そして儀礼とは、去勢の反復だとも言えるそうです。

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