ジャック・デリダ入門

概念の脱構築

独特なデリダのスタイル

二項対立のどちらをとるか、では捉えられない具体性に向き合うものとして、「二項対立を脱構築する」という新たな思考法を示したのがデリダです。

二項対立とは

論理学で二つの概念が矛盾または対立の関係にあること。
また、概念をそのように二分すること。
例.)内側と外側、男と女、主体と客体、西洋と非西洋など。

パロールとエクリチュール

抽象度の高い話になりますが、
デリダにおいては「話し言葉」と「書かれたもの」という二項対立が全ての二項対立の根本に置かれています。「話し言葉」はフランス語でパロール、「書かれたもの」はエクリチュールと言います。

上の文章をもう少し具体化すると、例えば、SNSを駆使した文字のみのやり取りだと誤解を生む可能性が大きくなります。相手の温度感が伝わりづらかったり、特定の文脈のみに注目され、悪いように解釈されてしまうことがあるからです。書かれたものは様々な解釈が可能で、文脈次第で価値や意味が変わってしまいます。

しかし、実際に面と向かって話してみると意外と誤解が解けたりする。書かれているものより、実際に聞いた話に真理性を感じるのはよくあることです。

パロールには真理性があるとされる一方で、エクリチュールは、ひとつの同じ場所に留まっておらず、いろんなところに流れ出して、解釈というか誤解を生み出していきます。

しかしデリダは、そのようなエクリチュールの性質を悪いものと捉えず、そもそもコミュニケーションでは、そういう誤解、あるいは間違って配達される「誤配」の可能性を無くすことはできないし、その前提で人と付き合う必要がある、ということを考えました。

ここで、デリダの考えをもう少し掘り下げて考えてみます。

どんな内容であれ、何かを主張するときには必ずA対Bという二項対立が使われているのですが、通常意識されることは殆どありません。

例えば、「ゲームばかりしていないで、勉強をしろ」という文を考えます。
そこには勉強とゲームの対立があるわけですが、少し抽象化すると、「真面目なこと / 遊び」、「本質的 / 非本質的」といった二項対立が背後にあるわけです。

本質 / 非本質という対立で考えてみると、本質的なことが非本質的なことよりも大事なのは当たり前です。それこそが本質的という言葉の定義だからです。

しかし、「本質的なことが大事だ」という常識をデリダは本気で掘り崩そうとするのです。これこそデリダが画期的だった部分です。

少し深掘りしたいのですが、「本質的 = 重要」とはどういう意味でしょうか。「重要であるということはどういうことか」というのは殆ど考えられません。また逆に、「非本質的なものの重要性」を考えようとしても少し妙な感じがします。でも、デリダはそこを考えようとするのです。

デリダによると、二項対立におけるプラスの項は、「本来のもの」、「本物」、「オリジナル」であり、更に言うと「直接的なもの」を意味します。

偽物よりも本物の方が良いというのは常識です。絵画に置き換えて考えてみましょう。本物の絵というのは作者により直接描かれていますが、その贋作は他人の描いたもので、作者という基準点から離れていて間接的です。

本質的で重要なものというのは、ある基準点にとって直接的なものであると言えます。これこそが根本的な二項対立です。ありありと目の前に本物があることを「現前性」と呼びます。そしてその現前性に対して劣っているとされるのが「再現前」です。この両者の対立が「現前性 / 再現前」という構図であり、この二項対立が、「本質 / 非本質」という対立の根本にあるというのがデリダの主張です。

例えば、「有機農法はよく、農薬や人工肥料はよくない」という価値観をとって考えてみましょう。これは地球に備わる元来の自然のプロセスがよく、そこから離れていくのはよくないという発想からきています。

これらを抽象化してデリダのアイデアである、二項対立の根本に当てはめてみます。

有機農法 → 直接的な現前性、本質的なもの:パロール
人工肥料 → 間接的な再現前、非本質的なもの:エクリチュール

パロールは直に真意を伝える、エクリチュールは間接的だから誤読される。
上の話だと当然自然なものはパロールの側で、人工的なものはエクリチュールの側だと言えます。

これらを踏まえて、脱構築の手続きを説明します。
デリダによる脱構築は次のようにして行われます。

  1. まず、二項対立において一方をマイナスにしている暗黙の価値観を疑い、むしろマイナス側を味方するような別の論理を考える。(ただ逆転をさせるわけではない)

  2. 対立する項が相互に依存し、どちらが主導権をとるものでもない、勝ち負けが留保された状態を書き出す。

  3. そのときに、プラスでもマイナスでもあるような、二項対立の「決定不可能性」を担うような、第三の概念を使うこともある。

上記を踏まえて、先ほどの「有機農法 / 人工肥料」の対立を脱してます。

  1. 有機農法が優位で人工肥料が劣位に位置付けられている一般的な理由としては、有機農法が有する自然や人間への配慮と人工肥料が引き起こす自然や健康被害への懸念が挙げられます。有機農法で作られた野菜は栄養価が高く、元来地球に存在する生物を肥料として利用しているため環境の悪化を招く恐れが低いです。それに対し、人工肥料はガンや肝障害を起こす可能性のある物質が使われていたり、使用量によっては土中の生態系を崩す可能性があります。ここまで読んだだけでも有機農法に分があるのは明確です。しかし、全く人工肥料を利用しないとなると雑草や病害虫対策、収量の確保等が非常に困難になり、周囲の生態系は崩さないにしても、生産者への負荷が非常に大きくなります。人間のための生産物なのに、人間に負債を負わせて自然を守ることで、収穫量を激減させるのは果たしてよいことなのでしょうか。

  2. 更に上の文章をより深掘ると、劣位とされている人工肥料自体に悪があるのではなく、使用した結果起こりうる健康への被害や環境の悪化に悪があるとされていることがわかります。そのため人工肥料による人間や環境への被害を抑え、更に、使用することで栄養価の高い作物を生産できるのであれば人工肥料が劣位に位置付けれる理由は無くなります。また、現在では適切な量の人工肥料は環境や健康への悪影響を与えないことが証明されており、更に有機肥料であっても過度に利用すると環境悪化を引き起こします。

  3. 要は、「有機農法 / 人工肥料」の二項対立の元にあるのは健康や環境への被害の懸念であり、それはどちらの農法でも招きうることがわかります。いわば、適切な量を適切に使用するという生産者のモラルに依存しているのです。自然本来のプロセスがなければ作物は育たないが、人間による文明の利器を利用しなければ、十分な量は手に入りません。両者共に必要ですし、もっといえば両者を適切に利用できる人間のモラルが必要なわけです。道具は利用者次第で毒にも薬にもなります。それ自体に非があると考えるのではなく、それらの良い面を適切に引き出せるような人間のモラルを構築することが何より重要になってくるのではないでしょうか。

とざっくりこんな感じでしょうか。
そもそも両者対立や前提自体が曖昧でかなり失笑ものなのですが、私のような青二才の現在の限界値ということでこのまま記載させていただきます。

このようにパロールvsエクリチュール(声vs書かれたもの)という対立は、寓話として色々な場合に当てはめることができるのです。
ここまでがデリダの考え方についての非常に簡易的な概念的な説明になります。

続いて、それらを踏まえた上での著者による人生への応用論についても考えていきます。

大きくいって二項対立でマイナスだとされる側は他者の側で、脱構築の発想は、余計な他者を排除して、自分が揺さぶられずに安定していたいという思いに介入するものだと著者は言います。

自分が自分に最も近い状態 ≒ 同一性とは、自分の内部を守ることで、直接的な物のであるパロールの部類に入ります。しかし、「自分は変わらない」という鎧を破って他者の世界に身を開こうということです。 これがエクリチュール的な動きになりますね。

人間は秩序を求めて何か一方的な価値観を主張する場面が出てきます。
それに対し、別の他者的な観点があり、押したり押し返されたりするのを繰り返すわけです。勿論、デリダ的な脱構築を徹底して生きることはできません。我々には何かを決断する必要があるからです。

そして何かを決断する時、我々は別の選択肢を切り捨てます。
全ての決断はそれで完了とするのではなく、その何かを考慮から排除してしまった忸怩たる思いを残さなければならないのです。そうした未練こそが、まさに他者性への配慮であると著者は言います。

脱構築的に物事を見ることで、偏った決断をしなくて済むようになるだけでなく、我々は偏った決断を常にせざるを得ないのだけど、そこに「他者性への未練」が伴っていることを意識することができるのです。それがデリダ的な脱構築の倫理です。

そして更に他者性への配慮にも限度があります。誰もが満足して何にも批判されないような決断は恐らくできません。時間や物資という有限性の中でよりよいものを目指す必要があるのです。

ですから、もう一つのポイントは、人が何か決断したり行うときに、他者性への配慮が足りないという批判を起こすことは常に可能だということです。ひとつの決断をデリダ的な観点から潰そうとすることはいつでも任意で可能です。

逆にいうと、人が何らかの決断をせざるを得ないということは「赦す」しかないのです。決断の許諾とそれが排除しているものへの批判は、社会の動力や現実性においてバランスを考えるしかありません。

このように、「現代思想入門」では、差異や他者性の重要性を踏まえた上で、決断や同一化をしていくのが人生であるということを、様々な思想を通じて教えてくれるのです。


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