ドグマ人類学

ドグマ人類学は、ピエール・ルジャンドルという思想家による理論で、ラカン派の精神分析を取り入れた法の歴史に関する独自の理論となっております。

ドグマという言葉は、独断的、独断論を意味し、融通が利かず、批判の余地を与えない決めつけのような印象を与えます。

哲学史においても、「世界の本質はこうだ」というドグマ的 = 独断的な決めつけをやめ、人間が世界をどのように捉えているかを分析しよう、というカントの哲学に転換した歴史があって、我々はカント以後にいます。

そして、カント以前の、世界はこうであるという思弁を行う哲学を「独壇的形而上学」と呼びます。( この「独断的 」というのはドグマティックの翻訳)
ですから、今更ドグマという言葉を復活させるのは奇妙な感じがするわけです。

ルジャンドルは一種の保守の人で、社会秩序を守ろうとする思想の持ち主です。だからこそ、ドグマ人類学は、世界の進展から距離をとって、現代的欲望を分析するのに役に立つのです。

今日我々は、物事を決めつけるのではなく、合理的・理性的に説明し、合意形成をして世の中を運営していると思っています。

しかし、本当にそうでしょうか?

実は今日の、つまり近代以後の啓蒙された世界でも、根本には、絶対にこうでなければならないという「異論を許さない決めつけ」が色々とあり、それにより社会は何とか成り立っています。

これは、実に原理的な話です。例えば、Aという主張をするとして、それには理由 a がある、と言われます。それに対して批判が起こると、その理由 a をさらに掘り下げた理由 b を言わざるを得なくなる。理由 b は「理由の理由」になります。そしてさらに批判が続けば、理由の理由の理由•••という掘り下げにはキリがありません。原理的には無限に続いてしまいます。

だけれど、現実には、批判や反論はあるところで止めざるを得なくなります。時間に限りがあるからです。

そうすると、ある段階で、事実上そこで行き止まりの「こうだからこうだ」としか言いようがない命題に突き当たることになります。
原理的には更に遡れますが、そこで「手打ち」にするしかなくなる。
その命題をドグマと呼ぶのです。

こうだからこうだ、というどうしようもなさは、全ての人が個人的に経験しています。名前とはドグマです。

自分で勝手にものに名前をつけることはできません。「これはこう呼ぶのだ」と指定され、かつその名前には根拠がありません。そのこととの関わりで、例えば「スプーンはこう使いなさい」とか、「食べ物で遊んではいけない」とか、様々な躾、決めつけがなされます。そこで子供は多少逆らっても従うしかない。嫌がるけれど、強制されるわけです。

子供がまだ一人では生きられない段階で、明らかに力の差がある状況で、制限が課されます。それにより一定の生活のルーティンが出来上がっていく。
つまり、去勢によって秩序が組み立てられていくのです。

なぜそうするのかをいちいち説明しようとしてもキリがないでしょう。人間の生活の根本には、非合理的なルーティンがあり、それが早い時期に成立するからこそ、のちに目的的な行動が取れるようになるのです。

このようにして、日常に蔓延るドグマに目を向けることで、より高い解像度で世の中をみることができるのではないでしょうか。

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