評bot 13


今回も始めます。趣旨は下のツイートをご参照ください。なお、ご利用者様は敬称略にて失礼いたします。


ひかるものみな死に絶えた地平線君の両目を両手で覆う /サツキニカ

地平線というと太陽が沈んでいくところですので、ちょうど沈み終わって地平線の周辺に「ひかるもの」がない情景なのかなと感じました。そうなるとそこにあらわれるのは闇ですから、なかなか周囲が見えない状況で、そこの「目を覆う」というのは意味がないようでいて、生から死の世界に移ったような環境から遠ざける、という、「見えないものを遠ざける」感じに詩情がこもっていて、いいなと思いました。

「死に絶えた」まで言ってしまったのが、引っかかる人もいるんじゃないかなと思います。私はやや引っかかりました。想像するに、星くらいあるんじゃないかなと思うのですが。「死に絶えた」と書くと、逆説的に「生きているもの」が際立ってしまって、読みのノイズになるかもしれません。

ただ、「暗い中で目を覆う」という情景が個人的に好きでしたので、ほんとうにそういう風に見えた情景なのかな、とこちらで補助線をひいて読むことはできました。たとえばそれが山などの叙景で説明できるものなら、歌に入れてもよかったかもしれません。反対に、心象の歌ですというには、実景につながる表現が多いため、厳しいのかなという気がします。

ご利用ありがとうございました。


ぼくのぶん食べてくれてた父ちゃんが残した飯は俺が食べるよ /姉川司

小さい頃は「自分側」が「食べきれない側」だったのを父が食べてくれていたのを、父の老いに伴って「食べきれない側」が「父側」に移るだろう、の、予感に対する姿勢に好感のある歌です。「ぼく」と「俺」の並立に、主体の時間軸が立ち上がっています。

私は短歌における「い抜き言葉」には寛容でして、というのも自分がしゃべるように書けばいいじゃんと考えているなかで、自分が「い抜き言葉」を使うからです。なので、ご自身で指摘されていた「二句のつっかえ」は気になりませんでした。

反対に、三句がつっかえていると思います。これは、「父ちゃん」という一言が二重にかかっているからです。「ぼく」に対する「父ちゃん」と、「俺」に対する「父ちゃん」を、どちらも三句が担っています。そのダブつきは、意味上のものでありながら韻律を重くしていると思います。

とはいえこれもテクニックだと思いますので、このままでもいいんじゃないかと感じました。あんまり気になるなら、「父ちゃんの、」みたいに読点や一字あけを使って無理やり間を作ってあげるのはどうだろうと考えはしましたが、我ながらクリティカルだとは思えませんでした。「飯」という語のあっせんも含めて、ご自身の心地よい語り口に従っていただければよいのではないでしょうか。

ご利用ありがとうございました。


今回は以上です。


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