ナタカ 歌集『ドラマ』について


たとえば「これが好きだ」という気持ちを効果的に人に伝えたいとき、僕たちはどんな表現を取るだろう。
文字を尽くして詳細にその理由を述べ、理性と情熱で押し切るのも手だ。エクスクラメーションマークを連打して、視覚的圧力で征服するのもいい。言葉短かに感動をあらわすのも効きそうだ。反面、なんだか本当に好きなのかわかんないなぁと感じるような伝え方だって存在する。

おんなじように「がんばって」って伝えたいとき、どんな表現を取るだろうということを考える。なんだかさっきよりは、難しい気がする。「好き」よりも押し付けてはならないような気がして。それでも根本は同じで、いろんな伝え方がある。
これが「かなしい」「たのしい」「もうだめだ」にすり替わっても全部同じ話だ。きっとそれぞれの伝え方があり、それぞれに好まれる伝え方がある。

いきなりなんの話かって感じだけれど、何が言いたいかって、僕が好むそういった感情の伝え方は「本気のほどほど」で、表題のナタカさんの歌集『ドラマ』は、僕にとってまさにそういう距離感で心揺さぶられる歌集だったということだ。

るるるると電話が鳴るけどいまちょっと泣いているるる出られないるる(I)

最初のページをひらくとこの歌でおもてなしを受ける。かなしい、とてもかなしい歌だ。かなしみが伝わってくる。ユーモアにつつまれて、ほどほどに。
「泣いているるる」はわかるが「出られないるる」と、くっついたようなるるが、おもしろいし、かなしい。電話の音が続いているようでもあるし、自分で口ずさむように言ってしまってるのかもしれない。

完璧な優しさというものがあるとすればそれはゆで卵のゆ(II)

完璧な優しさがほしいのだ。ないけど。ないから語るのが難しい。大げさに語るとうそくさい。かといって言葉が足りないと全然わからない。
そこにきて「ゆ」はほどほどにそうだ。いや、「ゆ」だけではだめなのだ。「ゆ」の発音に「始まる」言葉。とてもやさしく入ってきて、やさしくそこにある。ゆで卵。存在しない完璧な優しさを、適切に納得させてくる。

練習の通りにやれば良いという 練習はうまくいってないのに(Ⅲ)
自転車に乗れた頃にはもうみんなキックボードで橋の向こうだ(Ⅳ)

先程から引用歌に付記しているローマ数字は章題で、ナタカさんに訊いちゃったのだけど「わりかし」時系列に沿っているそうだ。そう思って読むと、歌風のゆるやかな移り変わりを感じるところもある。どちらかといえばキャッチコピー的な借り方はうすくなってきたのかな、とか、本当に芯の固い詠み方はじわっと増えてきたのかな、とか。
けれどやっぱり読みすすめていく中で、歌にふわっとかけられたほどほどさがとても心地よい。それはただごとのように襲いかかってきたり、感傷で殴りかかってきたりするのだけれど、なんだかちょこんと、心に居つく。

おめでとう君ならきっと色つきのそうめんになると思っていたよ(Ⅴ)
信頼はそういうものでいつだってヨドバシカメラのあるほうが駅(Ⅶ)

わりに本気さのベースがネガティブな歌を引いたので明るいものを引っ張ってきたけれど、本当に適切で好きだ。
おめでとうを伝えるのは難しい。どれくらいのおめでとうなのか、なかなか言葉になってくれなくて握手やハグになってしまうのだけれど短歌でそれをやるわけにはいかない。そこにきて色つきのそうめんだ。「そうめんで言えば」色つき。そのへんの君はたしかにお祝いしたいし、なれたんだね、って言いたくなる。
ヨドバシカメラはいつも駅前にある。札幌で詠んだ歌とある。ナタカさんは関西の方だから、大阪駅なり京都駅なりのヨドバシカメラをご存知なのだろう。それで信頼をかたるのがたのしくなる。ほんとうは「そういうもの」の「そういう」を語りたいのだけれど、ヨドバシカメラで匂わせてくれて、読み手に任せてくれているようだ。

私にもあなたにもある心臓が違う速さで鳴るのがこわい(Ⅷ)

僕がベストによく挙げる歌で収録されていてうれしい。上の句で執拗に示される心臓の同位性を信頼するがゆえのこわさだが、よくわかる。生き物は心臓の動く回数が決まっている、とかいう話が背景にあるとも思うし、心臓の鳴る早さの違いを感じられる状況も浮かんできて広がりがすごい。これは本気で怖がっていると思う。でも、静かにその怖さは提示される。怖がれー!って感じでは、こない。

補助輪の取れた季節を覚えてる冬の日暮れは早かったから(Ⅸ)
アジフライやっぱり買えば良かったなアジの分だけ袋が軽い(Ⅺ)

今までの僕の語り口は、もしかしてナタカさんの心象風景的な秀歌性に偏っていた(あるいはそうとられそうな評になっていた)かもしれないと怖くなったので、こんな歌も引く。
こういった叙情も明るかったりしんみりしたりたのしかったりもろもろと、押し付けがましくない寄り添い方をしてくれる。

ほか、連作『羊の行進』やウェブサイト「うたの日」への投稿作品も収録されていて、すでに歌を引きすぎているのでここからは止めておくけれども、僕が言いたくなることの根本は、さっきまで繰り返していることと同じだ。

ナタカさんというお人とこの歌集の結びつけをするのが評として適切なのかどうかはわからない。歌会でご一緒したことがあるのでもちろん感じたところはあるし、短歌の私性をかんがみてその不可分性を無視してはいけないとは思うけれど。
まあ、ここではやっぱり、ナタカさんがナタカさんとして、日頃から短歌に向き合ってきたものがまとまっているな、という感想に留めよう。たくさんの歌から選ばれているはずなので、凝縮という表現がふさわしいのかもしれないが、とにかく「凝縮」という単語に含まれているある種の暑苦しさを全く感じないすごさがあるので、どう言葉にしたらいいものやら、というところである。

この歌集を語るにあたって「好き」という言葉はなるべく控えたつもりだった。そうじゃない回し方をしたかったし、僕も短歌をつくる人間の端くれとして「やられた!」という感情もしっかり喚起させられたし、さまざまな思いはあってしまう。

けれど、それはあくまで作者としての僕個人の話。日頃から短歌を知人に紹介することが多い読者としての僕は、また一冊、とても紹介しやすい歌集にお目にかかれたといううれしい気持ちでいっぱいだ。
そして、この記事を読む方はさすがに短歌に興味のある方だろう(もう長いこと書いてきている)から、あえて宣伝することはないのかもしれない。けれど、今年読んだ歌集の中で、一番自分の横に寄り添われてしまった作品だったな、と思ったので、広くみなさんに寄り添いにかかってほしい気持ちである。

通販、まだやってると思う。やってなかったらごめん。お気軽にお共にしてほしい歌集だよ。

最後になるけれど、作者であるナタカさんに感謝の気持ちをこめて結びとします。同世代なのは重々承知しているけれど、まだまだ大先輩って呼ぶからな。

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