水沼朔太郎『猫に火傷を、初孫』と短歌の読みについて


歌友の水沼朔太郎さんがネプリを出しておられた。標題のタイトルの連作短歌十首が載っているだけのとてもシンプルなものだ。とはいえ、そもそも短歌ネプリってこんなもんである気がするし、あまりデザイン勝負に逃げないでやっていきたい気持ちをかきたてられる。

そしてその十首がとてもよかったのと、ネプリを離れた文脈についても読んで色々と思うことがあったので、できるだけまとめながら、おそらく散漫に書いてゆく。

2日連続1.5倍の物量に苛立ちを隠せない初孫/水沼朔太郎『猫に火傷を、初孫』

タイトルだけ知らされた状態でネプリをするので、言葉の組み合わせが気になっていた。
けれど猫が火傷をするわけではなく、要素としてこのあたりを組み合わせたタイトルであったようだ。

歌に初孫とあるのが面白くて、これはおじいちゃんの視点というわけではなくて、初孫としての主体を初孫と表現しているのだろう。
初孫というとそれはもう可愛がられるイメージで、かといって就職してまで可愛がられるわけではないのだけれど、就職したら初孫とはなかなか呼ばれないわけで。でも初孫という事実は生涯ついてくるものなのだ。
そういう面白表現としてさしこんだともとれるが、苛立ったときに「自分は初孫なのに」と思ってしまう感じはわかるし、ともすれば初孫らしい。

すみませんぼくは餃子を食べてきたラーメン食べて火傷もしてきた/同

上句を川柳として完結させてしまってもありだろう。ぼく「は」の限定させる含みのある助詞と、にんにくを想起させる餃子のとりあわせがよい。
しかしこの歌は下句にラーメンをもってくる。ラーメンがあとだ。ラーメンを食べて餃子も食べた歌ではない。餃子を食べて、ラーメンも食べて火傷をしてきたのである。
これはおそらく、火傷をしたことの自分の中での大きさがあって、餃子以上のものだったのだろう。よくある言い回しの逆になることで火傷の実感が深く、なんだか楽しそうでもある。

痩せるよりまず先にやることがある猫背をなおす猫がきらいでも/同

タイトルにある三要素の歌を引っ張る。下句の言い回しの面白さが目につく。猫がきらいなことと猫背はなんの関係もない。しかしそうくっつくことで、なんだか猫背をなおすことのハードルを感じる。
しかしその猫背は痩せるよりも先になおさなければならないのだ。そう思うのは自由だし大いにあり得ることだけど、結句がすべてをうまくうやむやにしている。猫がきらいならむしろ猫背でない方がよいのでは?と突っ込んでみたくなるくらいだ。そこにいるのは主体の怠惰だと感じられた。

歌を通じて主体がキャラ化されているというか、歌の面白さが主体のちょっと変な実感の仕方に紐付いていて、それが水沼さんの短歌の特徴かなと感じている。
たまに、実感がよくわからないことがあって、たぶんわかる人はわかるだろうし僕が他の読み手よりわかる歌もあるんだろうけど、この連作は総じてわかり、面白かった。みんな読んでほしい。

と、ここまで書いてきて感じたことに、ちらほら聞く「歌は歌として鑑賞されるべきで、そこに作者の属性を持ち込むべきではない」みたいな考え方に対する違和感がある。
正確には違和感というより、それを貫き通すことの危うさに近いかもしれない(無記名の歌を評することも多々あるし、そういうときは作者の属性抜きで語ることになるからだ)。

僕は比較的、水沼さんというリアルな個人によく会っている人間だと思われる。ということで水沼さんの歌を読めば、彼のリアルな生活が浮かんでくることもある。

例えば最初に引いた初孫の歌も、僕は水沼さんの仕事内容をざっくり知っていて、となると物量が多くて苛立ちを覚える景もそれに引きずられる。そういう職場は多々ある中で、これというのが浮かぶ。
ラーメンの歌も、久しぶりにラーメンを食べたら口の中を火傷した、みたいなツイートをされていたのを目にしていたし、そういう実感がはじまりなのかなと感じていた。
猫背をなおす歌も、リアルに彼と話している中でそれに近い会話をした記憶がある(だからこそ、猫がきらいでも、の接続が意外で面白かった)。

もちろん歌は歌として鑑賞されるべきものだ。けれど、作者が「実際にそう」であって歌にした、ということを軽んじるのはいけないのではないか。
歌を鑑賞するにあたって、なぜこの表現を使ったのだろうということはよく考えることだが、その際に「作者が実際にそうだったから」であれば、ひとつの解になりえる。そしてそうでなかったときは、「なぜそういう言葉を『選んだか』」に問いの方向が変わっていくことになる。

つまりは鑑賞および読解において、作者の属性というのは、歌を歌たらしめている根拠の判定という意味では必要になってくるのではなかろうか、ということだ。
もちろん、作者の属性を知らないのであれば想像するしかない。ただ、筆名をもって歌を発表し、それが明らかである場合、それは歌の内容におおいに立ち入っている事項だと思う。

と、私見という名の脱線があったけど、もう少し水沼さんの歌に戻りたい。

圧倒的な寝不足のまま初孫に会いたくて3キロウォーキング/同

連作中、もう一度初孫が登場する。こちらの初孫はどうも先の歌とちがって主体ではなさそうだ。あるいは先の歌の初孫も、主体が見ているひとなのかもしれないが。

こちらの歌については、僕は水沼さんの属性を歌に持ち込むことができなかった。そういえば、がなかったからだ。けれど水沼さんなりの実感のもとがあったのかもしれない。
歌として、寝不足と3キロが支える「会いたさ」を初孫の面白さで拾っていて、連作の中での初孫のずれたようなリフレインが効いていると感じた。

作者の属性を鑑賞に持ち込むべきか否かという話でなくて、持ち込めるのなら持ち込んで判定すればいいし、持ち込めないなら想像するなりしないなりするのがよいのでは、とも思う。

居心地の悪さかちかち鳴っているあなたが笑ってくれたガ(ー)ター/同

連作中もっとも好きな歌だった。ガーターともガターとも言うボーリングのアレ、きっとそこの言い方で笑いが起きたのだ。その居心地の悪さ。かちかちという音もそれっぽい。とはいえ元となったであろう出来事は、色々と想像ができる。ひとつに定まらない。

こう見ていくと、水沼さんの歌は生活の実感をベースに置きながら、サンプリング色の強い作られ方をしているのではないかなと感じる。
起点となった感情や実感があって、面白さをひろい、それを表出できるようにエピソードを分解して、サンプリングのような取り出しと接続を行っているような。
たまたまそのサンプリングの要素が、リアルの彼と繋がったら復元の手がかりになったり、なにも分からなかったら色々と生活が読みだせる(わからないときもある)。
タイトルの組み合わせもなんだかサンプリングという言葉で語ってみれば、それっぽくもなりそうだ。類型的にすぎるようだったらすみません。

合同の歌集『ベランダでオセロ』を一緒した時からそんな実感があったのだけど、このネプリを読んでそれがぶわーっと浮かんできたので書いてみた。途中、短歌の読みに関する思考がくっついてきたのも事実なので、一緒にしたままにする。

しかし、このシンプルな形式いいなあ。僕もやろうかなあ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?