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かたくなにぼくは

毎月僕が編集を担当している、短歌連作サークル誌「あみもの」の第24号に、歌人の水沼朔太郎さんが久々に連作を送ってくださった。タイトルは「かたくなにきみは」。なんとびっくり、すべて僕と水沼さんとのことを歌にしてくれていた。「短歌研究」が数号かけてやっていた企画「平成じぶん歌」の、御殿山みなみ版だという(僕は自分で詠んでないけど笑)。

いま僕は、大阪を離れて名古屋で暮らしている。だから水沼さんとも離れてしまったんだけど、彼とは2017年の9月くらいに縁があって、そこから約二年、最も会って話をした歌人の友人なんじゃないかなと思う。そういうこともあってじーんとしてしまって、せっかくなので「かたくなにきみは」の全首評と僕の日記を兼ねた文章を書きたいなと思った。本人に尋ねたところ快諾してくれたので、書かせていただく。歌は、連作の順番に引いていく。

ほんとうに死んでしまうと思ってたきみが婚約発表をする

いきなり失礼なやつだな(笑)じゃなくて、水沼さんにはとくに、プライベートの悩みを打ち明けていたと思う(し、打ち明けられていたと思う)。時系列で言えば一番最後の歌になって、そこから過去を振り返るような構成。ちなみに「死んでしまう」の「未来にある死」感と、「婚約発表」の「未来にある生」感の対比がいいね。未来に生、ってあたりまえなんだけど。

水沼さんとはなにかと相談し合っていたけれど、恋人の存在はまったく言ってなくて(TANKANESSに発表した自身の29年間を振り返る連作に、恋人を出したので気づかれた。なお、それでも相手の名前を僕が伏せ続けたの、ひどい)、まあそれは、僕はネットであれこれのろけてはいられないし、そういう雰囲気を周囲につくられないようにもしたいなと考えてたからなんだけど、悪かったなあと感じている。そのへんの、彼にとってのびっくりも、歌にあらわれていると思う。

『渡辺のわたし』の話で歌人だときみを認める夏の大阪

水沼さんとの出会いは2017年の大阪文フリで、たぶんそのころ僕の短歌の腕前は、ようやく形になってきたか?くらいで、今と比べても確実にへたくそだった。それを言えば水沼さんもいまよりはへたくそだったんだろうけど、ちょうどそのとき読み込んでいた斉藤斎藤の『渡辺のわたし』の話をして、彼にとって僕がぴんときたらしい。ということがあったことは、ぼんやり覚えている。どんな話をしたのかは、まったく覚えていない。

実際はこのままでもいいお客様4番の窓口でお待ちください
シースルーエレベーターを借り切って心ゆくまで土下座がしたい
ひざから下が小走りになりたがる(青の点滅)うしろから行く
ふとんの中でおかゆをすするあと何度なおる病にかかれるだろう
   /斉藤斎藤『渡辺のわたし』
  (いまでも僕の中で最重要の歌集で、いちばん影響を受けた歌集だ)

歌中の「夏の大阪」は、実際は9月だったけど暑かったから夏でいいとして、大坂夏の陣みたいな戦の高揚を暗示しているような表現だと思う。それと、「歌人と認める」という、弛緩よりは緊張寄りの表現が、うまくあっているなと感じる。

『あそこ』を読むようきみにすすめるかたくなにきみは膝を見るかたくなに見る

そう、そのあと望月裕二郎の『あそこ』を読むように言われたんだった。で、葉ね文庫で彼の前で買って、読んだ。そう、買って読んだのだ。素直。歌の下句の「かたくな」はおふざけで、つまり「ひざみろ」というHNの僕が「あそこ」つまり股間を見ないで膝を見ている、というニュアンスだろう。でもまあ、これは作風に対する僕の意地っ張りの隠喩として読むことができなくもない。

ちなみに『あそこ』読後は結構な衝撃を受けて、というのは、そのころの僕が短歌でやろうとしていたことのレベルアップバージョンがそこにありまくったもんだから、なんというか、水沼さんには感謝している。あれを読んで路線変更していなかったら、いまごろ僕は、望月裕二郎の五番煎じみたいな歌を量産していたかもしれないのだ。

いもしない犬のあるき方のことでうるさいな死後はつつしみなさい
なでさするきもちがいつも電柱でござる自分をあいしてよいか
吉野家の向かいの客が食べ終わりほぼ同じ客がその席に着く
トランクスを降ろして便器に跨って尻から個人情報を出す
   /望月裕二郎『あそこ』
  (ごめん、やっぱりいまも影響を受けまくっていた)

水沼さんの連作に戻ろう。

台風で電車が止まりそうな夜きみと数の子を寿司屋で食べた

まさにこのエピソード通りのことがあった。台風で帰りの電車がやばいんじゃないか?ってときにご飯の約束をしていて、まあいいかと二人で回転寿司に行ったのだった。そんなことしてる場合か?というギャップ感が歌にあって、それが主体と「きみ」の関係性を表していますね、なんてふうに歌会だったら評するんだろうけど、この「きみ」が僕なので、なんだか気恥ずかしい。

とはいえいろいろ食べた中で「数の子」がピックアップされるのが面白い。ここは、歌として面白くなるものを選んできたなと思う。すべてが事実に即している必要はない。や、数の子は多分食べたんだけど。気持ちの置き方として、これはエピソードよりも歌に比重が置かれている。

 駅前でティッシュを配る人にまた御辞儀をしたよそのシステムに(中澤系)
京阪で植物園に行ったさい挨拶したよその駅名に

詞書にて引用を示した、中澤系の本歌取りだ。ちょうどこのころ、僕の興味はものすごく中澤系にあった、というのまで拾ってくるからすごい。これはお遊びの本歌取りで、あんまり深い意味はなくやっていると読んだけれど、だからこそその本歌が僕に関わりのあるものからチョイスされるのが、さすがだなあと思う。なんというか、水沼さんが楽しんでこれを組み上げてくれているのがわかった。

3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって
靴底がわずかに滑るたぶんこのままの世界にしかいられない
知る? きみは少し先回りしたあと後ろ向きでそれを見ただけだ
そのままの速度でよいが確実に逃げおおせよという声がする
   /中澤系『uta0001.txt』
  (僕は結局この文体を選ばなかったけれど、甚大な影響を受けた)

ちなみに御殿山みなみの御殿山は、京阪電車の御殿山駅から来ている。あまり大きな駅ではないのだけれど、京都と大阪を京阪電車で行き来する場合は通過することになる駅だ。もちろんそこに僕はいなかったんだけど、なんかそういうところのエピソード、ちょっとぐっとくるのなんなんだろう。

新大阪から東中島南方駅まで歩かせてベローチェへ

あれ、これ西中島南方駅のまちがいじゃないか。でもたしかにベローチェは西中島南方駅の東側にあって、もう方角わかんねえなみたいな話はしていたのであった。僕は新大阪で働いていたので、よく仕事終わりに会うときは新大阪で待ち合わせていたんだけど、なんやかんやで場所がなくってベローチェまで歩いてしまった、ことがあった。これも台風の数の子の歌のような、ゆるっとした関係性がある。

歌として、「歩かせて」のたいそうな感じから「ベローチェ」という喫茶店チェーンのなかでも安いほうに入る店の落としどころ、そして当然「それに同伴している」主体、あたりが読みどころだと思う。いやほんと好きなんだよこういう歌。しかしモデルが僕なのでくすぐったくなって、ちょっと距離をおいた評の仕方になってしまっているなあ。

2勝1敗でぼくらが並ぶ星取り表の3連敗が御殿山さん

これは、僕と水沼さんと、佐伯紺さんと橋爪志保さんで合同歌集『ベランダでオセロ』を発行するにあたって、一日だけ大阪で全員あつまって短歌を作る会をやったときのことだ(結局だれも短歌をろくに書かなかったんだけど笑)。そのときに、『ベランダでオセロ』だからオセロのリーグ戦をしようということで、やったんだけど、僕が全員に負けて、ほかの三人は2勝1敗だったのである。

「御殿山さん」と「きみ」が名称化されるのは、そこに佐伯さんと橋爪さんも等質にいたからなのか、水沼さんにとっての「きみ」は、ほかに誰もいないあるいは他の人の優先順位が低いときの二人称であるかのように感じる。

オセロみたいなメガネを掛けてきみはオセロに何度も負ける残業終わりのぼくにも負ける

うるせー、って感じの歌だけど、たしかのその時はオセロみたいなメガネをしていたし、水沼さんは残業終わりだったのである。これは連作三首目の「かたくなに膝を見る」のリフレインと同じ構造で、「きみ」たる僕の行動にパターンを作ることで、連作での「キャラ立ち」がしっかりすることになっているなあと感じる。

 真夜中のバドミントンが 月が暗いせいではないね つづかないのは(宇都宮敦)
戦略を持たないオセロで ぼくらが強いせいではないね 勝ちがつづくのは

三首つづけてオセロの歌で、最後はダメ押しの本歌取りでのいじり。でもこれはもちろん、僕の三連敗にひっかけているんだろう。大きなお世話だよ!(笑)そういえばこの二週間後くらいが僕の誕生日で、プレゼントにオセロが強くなる本をもらった。余談だね。

この歌は本歌の構造だけを借りていて、ポエジーの根拠はむしろ破壊してるくらいで思い切りがいい。そして宇都宮敦。僕が短歌を作ってみようと思うに至った『ショートソング』所収のあの連作の作者。そういうところだぞ(誉め言葉)。

コインランドリーで本を読んでいる もちろん洗濯もしているよ
むらさきの君のタイツが膝に向かいきれいなグラデーションをみせても
おめおめと手ぶらで真昼の灯台でなにを言ってるのか聞こえない
君のかばんはいつでも無意味にちいさすぎ たまにでかすぎ どきどきさせる
ぶん投げたオレンジが波間に浮かぶ ベストを尽くすよ ヘイ! ベストをね
バス停の屋根から草がはえていた バス停からははえてなかった
だいじょうぶ 急ぐ旅ではないのだし 急いでないし 旅でもないし
オーロラの下うごけない砕氷船 とりあえず とりあえず踊っとく?
鍵穴にささったままの鍵のキーホルダーが風にめちゃくちゃゆれる
真夜中の君が思い描いたよりずっとずっと熊の顔は細長い
   /宇都宮敦『ピクニック』
  (今年の目標は、『ピクニック』をいい加減あがめやめることだ)

ついつい力が入って引用しすぎてしまった。ただこの辺の僕の熱の入れ方というのも、水沼さんにはある程度お見通しなんだろうな、という予感がどこかにあって、彼とは思想的に相容れない部分も(お互いにだろうけど)あるが、それがあったとしてもこうして仲良くやってこれているんだろうなあ、と感じる。

いずれにせよ、『ベランダでオセロ』を出せたことは、僕たち(たち、を背負って言っていいと考えている)の一歩につなげられたことだと思っている。

『ベランダでオセロ』を出した勢いでTさん交えて梅田で麻雀

Tさんは歌人だが、連作と同じく伏せよう。「勢い」は、Tさんを誘ったことにかかっている。『ベランダでオセロ』は、四人の生活観を軸に言及されることが多く、それらはすべてありがたかったのだけれど、こうした日常生活の結晶から麻雀に至る感じ、僕が当事者だからってのが大きいのかもしれないとはいえ、すごくわかる。

節制を引けばはじけるタロットの三年後も仲良くしてほしい/御殿山みなみ
また会えるような気がするから惜しみない惜別を その後の日々を/佐伯紺
ハイタッチ握手それから手をふって全部盛りみたいなわかれ際/橋爪志保
ときは流れ 両手で3つのつまようじ 三角形をひとつ作った/水沼朔太郎
   /『ベランダでオセロ』
  (なお、この四人のグループLINEは今もたまーに動く)

そんでもって、四人ともしっかりやっていくぞ、の気持ちで少なくとも僕はやれていて、これはとてもうれしいことだ。

三人麻雀の空席に向けて放たれるTさんのご機嫌中ビーム

前の歌に続いての麻雀で、そう、これは三人麻雀だったのだ。水沼さんはまだ卓を囲むのが2回目くらいで、それはもう弱かった(笑)。中牌を切るときは「ちゅんびーむ」と言いながら切る、というのは確かにあって、Tさんのそれはかわいくて、あれでもたしかあのときはTさんの向かいが水沼さんだったっけ、という僕の記憶があるんだけど、定かではないし、歌として中ビームは空席に向けて放たれるべきだと思う。

存在しないビームが存在しないところに飛んでいくことは、とても平和でいいことだと思う。そういえば水沼さん、このころはピンフの概念もおぼつかなかったんじゃなかっただろうか。懐かしい。

じゃんけんも実力のうちじゃんけんできみはガルマンオブガルマンに

去年の3月に、僕が(予選も決勝も)じゃんけんの力を借りてガルマンオブガルマンになってしまったときのことだ。「運も実力のうち」をそのまんま言っているところを、「じゃんけん」にすりかえ、リフレインにすることで「ガルマンオブガルマン」の「ガルマン」のリフレインに呼応させている。

寝袋で定義している寝室にあした冷蔵庫がきてしまう
雪は口にふしぎと入らないままにどうでもいいことを話してる
   /御殿山みなみ(ガルマン歌会 詠草)

その回のガルマンは予選と決勝の二本立てだったから、この構造もリフレインに相性がいいなあって思う。ここまで計算ずくで組み立ててるんだったらこわいけど。

タピオカを4人で飲んだあたりからきみに増えたねうんこの話が

この4人というのは、ベースとなった事実エピソードとしては、僕と水沼さんと、多賀盛剛さんと村上航さん。僕が名古屋に行くってことが決まってから、四人で麻雀をした(接待していただいて?バカ勝ちした)。そのあとノリでタピオカを飲むことになって、ってことと、それ以降の僕のツイートにうんこの話が増えたということがエピソードの基礎だろう。

確かに「会社のトイレでうんこしてたら電気消された」だの「うんこうんこうんことつぶやいてやる」だのそういうことを言っている僕だ。で、これはきっと、タピオカの黒いつぶつぶが(ごめんなさい!)うんことアナロジカルだってことだと思うんだけど。僕としてはまったくそういう意図はないから、こういうくっつけ方をして面白がっているのは主体でしかないんだけど、まあなんか、面白いから良しとしよう。

 月を見つけて月いいよねと君が言う  ぼくはこっちだからじゃあまたね(永井祐)
膝を探して「お大事に」ってきみは言う  ぼくは両膝だからもう一回

最後の歌。僕はTwitterで「ひざ」とエゴサーチをし、膝の調子が悪い人に「ひざをおだいじに、、、」とリプライをするという悪癖があるんだけど、水沼さんが両膝をやってしまったツイートをしていたことがあって、二回お大事にってリプライしたのだった。っていうのを、永井祐の本歌取りの構造で(丁寧に二字あけまでして)やってこれるくらい、永井祐の歌が入っているのが水沼さんなのである。

腹に手を当てるUFOキャッチャーが少しも楽しくない夕まぐれ
ベルトに顔をつけたままエスカレーターをのぼってゆく女の子 またね
この文面で前にもメールしたことがあるけどいいや 君まで届け
   /永井祐『日本の中でたのしく暮らす』
  (再読のたびに好きになってしまう歌集の筆頭格である)

水沼さんが短歌的に誰に影響を大きく受けているんだろう、ということを考えると、瀬戸夏子と永井祐なのかなあ、と思うんだけど、それ以外にもいて、それらはすべて、彼と話しているときに僕にも浸透してくるのだった。なんせ、この連作が載っている号の「あみもの」に僕が載せた連作の中の歌も、本歌取りというわけではないけれど、

話すことなくなってふとご祝儀に仲良く持ってきた3万円
   /御殿山みなみ(「あみもの」より)
大みそかの渋谷のデニーズの席でずっとさわっている1万円
   /永井祐『日本の中でたのしく暮らす』

「1万円」の使い方を大いに意識しての歌があるし、水沼さんがよいと思って発信してくれたものは、なんだかんだ僕の血肉にもなってるんだなあ、と、僕はしみじみできるような本歌取りだった。

さてさて、こうして連作すべてを見たことになるんだけど、こういうエピソード短歌でしかもモデルが自分、というのは、ともすればプライバシーの侵害にもなりうることだ。けれど、僕はこれに対して、なんの「嫌さ」も感じなかった。これは連作評とはズレるけど、理由付けを簡単に整理しておこうと思う。

・そもそも、触れるエピソード内容の選択に配慮がある。
・歌の良さの手柄に、エピソードの手柄とは別に作者の手柄がある。
・歌を読ませてもらうにあたって、読み手に取り分がある。

僕だって人間だし、水沼さんとはあまりおおっぴらにしてほしくないような会話だってした。けれどそういうところが切り取られてはいない。別にするのは自由だし止めないけど、されたら僕は嫌だ。

また、エピソードがいいから歌がいい、となってしまうと、それは歌のよさとは考えにくくなってしまう。なんせ現実を下敷きにしているから。やっぱり作者には料理をしてほしい。その上で、読み手である僕に対しての取り分がほしい。つまり、エピソードを歌にするにあたって自己満足で自己完結するのではなくて、こちらに楽しむ余地を残してほしい。

そのあたりがちゃんとしていたのでこの連作は、すごく好きだ。まあ、かなりマニアックなところを取り上げて料理しているので、僕以外の読者にどこまで刺さるかはわかんないけど……(笑)

けれどうれしかったです。ありがとうございました。

もう、気軽に会うことはできないかもしれないけれど、インターネットの上でもまだまだお世話になるつもりだから、これからもよろしくお願いします。

これは私信の意味合いを超えて、ここまで読んでくださったあなたにも。どうぞよろしくお願いいたします。かたくなに僕は、インターネットにいますので。

わき汗は水たまりなの湖なの川なの洪水なの沼なのだ(水沼朔太郎)
折れるけど前にしか折れないひざを持っている ふたつも持っている(御殿山みなみ)



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