2023評bot (7)

評botの公開評をここでまとめています。どうぞよろしくお願いいたします。
一度の記事で最大4評とし、特に溜まっていなかった場合は1評でも記事にすることといたします。

趣旨はこちらのツイートをご参照ください。

それでは始めます。なお、ご利用者様の筆名は敬称略表示とさせていただきます。ご了承ください。


ほころびとよろこびはほぼ同じですだって桜はあんなにきれい
/とわなり くおん

2023評bot035

「ほころび」と「よろこび」は音韻的に似ていることは確かですが、そのことだけを言っている歌ではないでしょう(そうなら、「ほぼ同じ」というのもおかしいと思います)。
概念として、少なくとも何かの要素において「ほころび」と「よろこび」は同じである、という主張がなされており、そのこと自体は意外性を帯びていますので、一読ハッとさせられる要素はあります。それが腑に落ちるかどうかが、難しいところです。この歌は、それを「桜はあんなにきれい」という説明の仕方をしています。それが分かるかどうかはさておき、分からないにしても効いているのかどうかが問われる歌だと言えましょう。

ほころび、と言うと、ほころびが生じるというようなネガティブな意味合いと、顔がほころぶというようなポジティブな意味合いのどちらもを思いますが、これ単体を思えば前者が強いように思います。どちらにしても、ほどけるようなイメージでしょうか。それと、「よろこび」を繋ぐこと自体は、まったくできないわけではないようには思います。
それを「桜」で結べているかどうか。「よろこび」のほうはわかりますが、「ほころび」のほうは個人的に難しかったです。そういう意味で、何を伝えたかったのかが分かりにくいと感じました。

これは想像ですが、この歌は「ほころび」と「よろこび」の本質をうたいにいっている構造ですが、本当に歌の関心のあるところは、「桜」を起点として思う、よりミニマムな「よろこび」と「ほころび」の共時性なのではないでしょうか。概念全体という、より大きなところを掴みに行っているな(だからこそ、よくわからない)と感じる歌でしたので、この受け取られ方に不満が残る場合は、今一度見せ方がこれでよかったかのご検討をいただくのがよいかと思います。

ご利用ありがとうございました。


生命のいつもの癖で生物は動かなくなることがあります
/高遠みかみ

2023評bot036

言いたいことはそれでいいのだろうか、と、諸々の言語化の前に思った歌でありました。
「生命」「生物」という言葉の明確な使い分けがなされていますので、「生命」のほうを、「生物」の命が集積する、生物全体の命の総体のようなものとして読むのがよいのかなと考えます。
そして、「動かなくなる」ということは、ここでは「死ぬ」と読み替えてよいものだろうとも考えます。

死は突然訪れるものです。ですので、この歌のいう「生命」の気まぐれのようなものでそれが来るんだ、という把握は、共感できるものだと思います。私は気まぐれと表現しましたが、この歌では「癖」と表現されていて、そのこと自体は効いていると思いました。癖さえなければ生物は死ぬことはないんですが、あるのでしょうがない、みたいな把握でしょうか。

そういう意味で、「動かなくなることがある」というのはなるほどと思いつつ、この表現と「いつもの」が共存しているのがピンときません。「いつもの癖」なら、「動かなくなる」んじゃないでしょうか。「ことがある」のように、例外もある感じを出したとき、この歌から「逃れようのない死」という把握がこぼれおちてしまっているように思います。

とはいえ、歌で書かれているのは「死ぬこと」ではなく「動かなくなること」ですから、そもそも深読みだったのかもしれません。ただ、「死」を前提としない「動かなくなること」を想起したとき、あまり心に響かないなというのが本音です。死ならわかる自然の摂理が、成り立たないからです。
個別個別で「こういう言い方をしたら効きそう」を集積させた短歌という印象があり、大味ではうなずけるいい歌なのですが、細かく触ると首をかしげる部分もあるかなと思いました。

ご利用ありがとうございました。


どろどろになっておとなになる蝶はどろどろのときふあんだろうね
/安原健一郎

2023評bot037

おどろおどろしさを出すことには成功している歌だと思いました。
蝶はさなぎの中では多くの部分が液状化しているそうですから、上句が言っていることは比喩ではなく事実です。そのこと自体が生命の不思議とも思えるものなので、「どろどろのときふあんだろうね」と言われれば、自分事に置き換えたとき、はい、と言えます。
その、「はい」が、「ほんとうに自分にそれが起こった時」という、ありえない想像を引き起こすことで、ぞっとする。そんな効果がある歌だと思います。

一方で、蝶にフォーカスした歌だと捉えてしまうと、あまりおもしろくありません。上句は事実の提示ですし、下句は、本当に「ふあん」かどうかなんて分かりっこないからです。
むしろ、完全変態の過程として非常に合理的かつすばらしい仕組みと言えるのかもしれませんし、「ふあん」という概念がさなぎにあるか、そういう部分を考えずに、悪く言えば人間の理屈を押し付けていることにもなります。

「人間の理屈を押し付ける」などというと擬人化その他のレトリックをすべて斬っている感じもしますが、それらは「実際はそうじゃないことを前提になぞらえる」ところがあるので、別の話だと思います。
もちろん、この歌は、さなぎの「人間から見たときの」おどろおどろしさを「人間として」引き受けにいっているようには思います。ただ、「ふあんだろうね」が、蝶に対して言っているように読めなくもなく、やっぱり難しいレトリックなのかなと感じます。

なお、私がこういう修辞を余計なお世話のように感じてしまうだけで、一般的には、こういう言い方を好む読み手も多く見えると思います。ですので、そこをよしとされる見方も大いにあるように考えます。
ちょっと、この歌のベストな読者にはなれておらず恐縮ではあります。

ご利用ありがとうございました。


ひび割れた唇に金を繕って重ね塗られた蒼さを分け合う
/貧血気味なもすきーと

2023評bot038

そういう実景なのでしょうか。口紅的なもので、金色を塗った上に青を重ね塗りする、みたいな。だとすると想起する色彩のイメージが結構強烈で、その感じだけでもおもしろいです。
「蒼さを分け合う」というのは、口紅を塗った後にくちびるの上下をすりあわせて色味を整えることを指しているのか、誰かとキスしているのか、どちらでも読めるとは思いますが、この一首だけで考えると、後者だとすればちょっと唐突かなあとは。

また、「金を繕って」というと、最初は「重ね塗り」の語の選択もあることから、金色を塗るというふうに読みましたが、「お金をかける」くらいのニュアンスで使われているのかもしれません。
色のイメージがはっきりしている一方で、この歌で立ち上げたい景があるとすれば、こうだというものが伝わり切らない、そんな印象はあります。そしてこれは想像ですが、この歌は、作者としては、景の立ち上げはしっかりさせたいのではないかと感じるのです。

ただ、「ひび割れた」から入るのは結構効いているなと感じます。きしむような実感を覚えます。
非常に動詞の多い一首です。そのために、主語や目的語の補足が追いつかず、歌のイメージを散漫にさせてしまっているところがあります。
最後の「分け合う」は要ると思いますが、「繕う」「重ね塗る」あたりは、あまり使わない語彙なので、こだわりを持たれているのかもしれませんが、読み手の理解優先で、動詞に頼らない詩的な見せ方をされるのも一つではないでしょうか。

どういう語の選択で歌を魅せていくかということはほんとうに作者の好みでしかないことは承知の上で、この歌ではっきり見せたいのは、大ぶりな動作と言うよりは、色の動きなんじゃないのかな、ということは感じました。

ご利用ありがとうございました。


今回は以上です。いつものように宣伝だけさせてください。
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