短歌同人誌『遠泳』2を読む

ちょうど去年出てくれてうれしかった同人誌『遠泳』の2が出てくれた。2はうれしい。映画やゲームだとレベルが下がってがっかりすることもあるけど、出ることはうれしいのである。

去年うれしかったので書いた記事がこちら。これからうれしくなる記事はこの先に続きますので、よかったら読んでやってください。

さて『遠泳』は2になってどうだったんだろうと読んでみて、怒られるかもしれないけど、前号と同じ水準ですいーっと読ませたなあと思った。泳ぐってそういうことなのかな。去年提示していただいたものを、今年も受け取れてうれしいなと思ったのであった。

意識するほどに遠のく雷鳴を受話器を通し聞かせたかった
 /榊原紘『猫はどこへ行く』

 雷鳴、電話、「あなた」の三拍子がそろってようやくハマる光景に一つ足りてない。電話してる相手が「あなた」じゃないのか、「あなた」とメールはできるけど電話はできない状況なのか、そもそも電話がかけられないのか。ってぐるぐると、雷鳴なのに遠のいていってしまう、そのことばかり考えていくと、今、今なんだよという気持ちが伝わってくる。

突飛だったり壮大だったりする道具に心象を組み合わせる歌と、一字明けでわりとはっきり指示する飛躍の心象の歌の数が多い気がした。どちらもパワー型のレトリックなのかもしれない、読んでてウワー伝えられている、なにかを伝えられているぞという気持ちになった。

ゆっくりと蝶を追ったら立ち止まる打ち明け話には遅すぎる
 /同

うなずいてしまう歌は、結構その主体の「関係性」に負荷をかけているものばかりだなと感じたのだけれど、それだけ読み手にも一般化できる関係性の紡ぎ方なのかもしれない。


バーナーで炙ったもののバーナーで炙った感のある味が好き
 /中澤詩風『駄々』

歌のいいところのほとんどを「感」が持って行っちゃった気がするけど、この「感」にありがとう、、、!って感じ。現実に炙ってるのに「炙ってる感」と一段階グレードを下げられてその炙られたものに同情してしまうんだけど、でも「炙った味」はたしかに「炙った『感のある』味」だわ、と納得してしまって、それが「好き」で、救われる。

全体的にキレてるのかな?と思った。決して荒すぎる語調ではないんだけど、見方、感じ方、考え方がなんかキレてる。そのキレ方がうまくて、共感しがちなんだけど、なににキレてるのかわかってこない怖さがあって、この人真顔でふつふつと言葉紡いでるのかな、って印象だった。

明らかに都会だけれどこの街がうちの田舎になる人もいる
 /同

そうなんだよな、そうだし、「うち」は一人称に近い「うち」で、それをもうこの人が引き受けちゃってるのか、と言うのが「だけれど」の逆説をより強くしてる気がする。なんかごめんよ、って言いたくなる。


孕むなら馬孕みたし嘶いてわれの体を揺さぶるような
 /坂井ユリ『花絆』

読みに僕が男性であることを持ち込みすぎるつもりはないが、マジかと思った。結句の「ような」はほんとに馬の態様にかかっていて、「馬のようなもの」を孕みたいじゃなく、馬を孕みたい強さをおぼえた。もちろん初句の仮定ありきなんだけど、その上でめちゃくちゃ強く言うことでリアルにするような。

主体には生(殖)、周囲には死がつながっていて、どちらもよく開かれている対比のようなものを感じた。かといって主体の生への開かれ方の「素通り感」みたいなものに戸惑っているような。連作の終盤で気持ちの転換のようなものがあって、

束ねるよ。それほど髪は長くなくたって束ねていたいよ、風を。
 /同

あたりのきゅっとしまったところでそれがにょにょっと向かっていく感じが個人的には読後感のよさにつながっててよかったなと思った。この落とし方は賛否あるのかもしれないけれど。


考えが死に近いとき台所に立って火や刃物や換気扇
 /佐伯紺『屈託』

笑ってしまった。火で死ぬ、刃物で死ぬイメージはわかる、換気扇か。プロペラ型の。そこにがーっと入り込んでいく感じ。それは思い詰めまくらないとできなさそうな想像で、しかし狂気と紙一重の笑いがある。で、たぶんそういう心境のことを言っているんじゃないか。死に近いのは気持ちと言うか「考え」。理性は残っていますよというからこその逆説的な怖さ。

この歌がとくに面白くて引いてしまったけど連作全体でいけば、この歌もが生活を消極的にでもやっていこうとする気持ちのひとつの起伏として読めてしまうような雰囲気になっているのが、佐伯さんだなって思う。弱いけど立てる主体だなーっていつも思う。

一生に一度なにかを盗むなら 橋の上から見る草野球
 /同

一字あけで考えたかー、そしてそれかという。下句が「盗みたいもの」なのか、下句の景が上句の気持ちを惹起させたのかは読みが分かれる。しかし、どちらにせよ、この二つがくっつく人の、引き方がわかる。


私のせいじゃないけど謝りポイントが貯まって鳥のお皿と換える
 /北村早紀『たーたん』

構図が面白くて好きだなって思った。「謝りポイント」の想像してるけどわかるやつ、それはたしかに「お皿と換える」システムのもので、「謝ってばかりで鳥のお皿を買う」という行為レベルでは実現できる行為を、こんな書き方をしてしまう感情のエネルギーが、そもそものこういう感情を引き起こしている「私のせいじゃないけど」なんじゃないかな、という気持ちになる。なかなか作りこんだな、が、そりゃ作りこむよな、と思える。

同人の中では歌数が少数精鋭であったのだけど、どうも「先生」であると読める主体のあわただしさと、襲い掛かってくるハードルと、その中で前向きにやっていくぞという気持ちがしっかりと感じられた。

でも君のたったひとりになるのなら強くならんとあかんと思う
 /同

なるのなら、は仮定じゃなくて、ほんとうにそうなるんだろうなっていう印象。連作の真ん中あたりで、ふと正気に返る感じの歌に、主体のまじめさがあるなあって思う。


生きてきて出遭ってくれた野良猫にあなたはかがむ 道の夕焼け
 /笠木拓『くす玉』

前号の連作がイデオロギカルに特徴的だったからか、一転なにげなさを愛するような雰囲気の連作にギャップを感じてそれがいい方に好きとなってしまった。出遭って「くれた」を言えてしまう、「あなた」にとっての野良猫のうれしさを引き受ける、その感じ、

ハンドメイド・タコヤキ・ナイト 世界など毎晩暮れてゆくのに のにな
 /同

わかるけどそんなカタカナ言わんやろ、からの、さびしいよ、さびしいけど毎晩暮れていく世界は引き受けられていて、こんなカタカナ言えちゃうぞの感じ、

朝のつめたい空気を連れて映画館にだけ通じるエレベーターへ
 /同

の、エレベーターの性質を愛しちゃえる感じ(同人誌の中でこの歌がいちばん好きかも)、が、いいですねえ、、、!!


校門の真横にかかる十字架の木だけが温かき十二月
 /松尾唯花『ひかり/冬の』

クリスマスムードに支配されゆく街並みと主体の思いが交錯するような連作で、「木だけ」が温かいってわかるんかい、が、クリスマスの電飾的なもので、ありだなと思う。ただそれは「木のなか」の「木だけ」はわかる中で、ほかのありとあらゆるものと比べての「だけ」はけっこうすごいなという気持ち。他の歌と合わせて、冷えているあれこれがあって違和感はなかった。

松尾さんの歌はバリバリの虚構でかまわないんだけどやっぱり読むと主体を松尾さんで想像してしまうのが、僕は良いんじゃないかと思う。そこまで松尾さんのことをわかってるわけじゃないから、錯覚なんだろうけど、そうさせるだけの主体の統一感と地に足の着いた感じが強い。

好き嫌いないですと打つゆびさきの逆剥け撫でてみる 月きれい
 /同

好き嫌いないですと伝える相手は、嫌われたくはない相手なんじゃないかなって思う。それが自分の思いとどこまで沿っているのだろう。とりあえず、爪と月って親和性が高い形状だなって思った。


ということで2があるんだから3もあるんだろうなって思います。書いといたら出る気がする。待ってます。ありがとうございました。

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