自選五十首評12 永峰半奈さん

いただいた五十首をもとに(略)歌人評を書くコーナーです。11月は個人的に文章を書いて書いて書き倒す月にしたかったので、いただいている全員分をやりきるぞの気持ち。そして最終日、なんとか間に合った。あ、これで募集を終わらせているわけではなくて、いつでも送ってきてくださればやるので、そのへんはご遠慮なく。

さて今回ご協力いただいたのは、永峰半奈さん。インターネットにも短歌を発表されているが、メインは毎日歌壇への投稿かもしれない。ちらほらお名前をお見掛けする。

そんな永峰さんだが、なんと第一回笹井宏之賞の応募連作五十首を送ってきてくださった。これを自選として出していただけるのは結構燃える。まあ、歌人評を書くにはやりやすいわけだけども。ということで、永峰さんの歌人評にも踏み込んでいきたいんだけど、基本的には連作評の範囲からの延長になるだろうな、と予想している。

タイトルは「夜のくじら」とのこと。虐待、と言い切れるかは置いておいて、親から不条理な目に合う子供の成長譚がベースの連作だ。子供はふさぎ込んでいく方向ではなくて、学問に食らいつき、また必死に孤高に生きるさまを心象風景を使った歌が目立った。これを、永峰さんの投影として今回は読んでいこうと思う。一首として気になった歌を、連作に登場した順に引いていきながら。

言葉には力がなくて こ ん な と き たとえば顔を蹴られてるとき

「言葉には力がなくて」をあらわすいいレトリックだと思う。力がなくて、「こんなとき」としか言えない。せめて、一字あけで強調するくらいしか。「それ」が終わって、顔を蹴られてるとき、と把握できる。言葉はあくまで後付けのもの。なにかをやめさせることができない。

序盤の歌は非力な子供が描かれる。子供は無力だ。けれど、子供は立ち向かうことを望む。だからこそこの歌でも、言葉に力がほしいと願うこころが基底にある。これは、連作全体を通じているし、志向として永峰さんの持っているものなのかもしれないと感じる。

北行けばしんしんと音吸われつつ無人の谷で吠える犬あり

心象風景の歌の挿入だが一首で読んで好きだ。すごく音のない世界に犬の鳴き声だけあるということだろう。音は吸われる。雪かなにかで。だから無人かどうかは確定しないが、人の音は吸われてしまうから実質無人。そこに犬の咆哮はわかる。という心構え。

永峰さんの歌には逆境が多い。それを気にしていないわけじゃない。なんでこんな目に、と思ってもいるだろう。そのうえで、立ち向かわなくては、という必死さと強さが歌に備わっている。歌のいくつかは、その強さに言葉が負けてしまっている(というか、空回りしてしまっている)印象もあるが、詩情とハマったら強く強く響いてくると思う。

小石なら人肌よりは似ているよわたしの胸と目の手ざわりに

これはよくハマっていると思う。人肌よりも小石に自分の手触りは似ている、というざらつきの表し方も十分面白いけれど、「胸と目」である。目の手触りってなかなか表現しない。実際これは、自分の目に映るものを含めての「手ざわり」であるような気がする。

逆境を生きる「わたし」は、戦場を生き抜いた覚悟のある心をもっていると思う。それは直接には語られないけれど、レトリックの裏から感じるものはある。僕なんかはどちらかというと、のほほんと生きてきたほうだから、そういう人とは違うんだ(これは、マウントを取っているとかではなくて、境遇として、単純にということだ)という意識があるようにも、感じられる。

花の名を知りたくてただ辞書をひく心はなやぐ美よりも先に

この一心不乱感っていうのかな、がむしゃらさが伝わる。言ってることはまさに下句で、花を見て美しいと思うよりまず知識の習得につとめている感じ。ただ、辞書ってたぶん「名前だけ知っているもの」の意味を調べるものだと思うんだよな。というのがあって、「図鑑」の間違いなんじゃないのかなと感じたが、連作を読むからにマジで辞書しか持ってない感じもある。

そういう不遇さからの知識欲、みたいなものはさっきも指摘したけれど、こういう歌にも表れていて、やっぱり知識の方向性としては、文字、文学、思想といった興味になっているようだ。

破れたる古き網戸の繕いを二人で終えし孤独な母子

「母子」は「おやこ」のルビ。貧困による網戸の破れではなくて、家庭内暴力によるもの。だろう。連作からはそんな風に読めた。この歌は「二人で終えし」という共同作業の描写を手のひら返しに「孤独な」と続けるのが迫ってくる。そりゃ親子をひっくるめて孤独といって差し支えないだろうけど、上句で示されているのは絆なのだ。そこからは遠いところにある表現ではないか。

ただ、一人で生きていく、という決意とは別のラインに、母親との絆というものも見えていて、この辺は主体の生活の支えとして読みに行くのにいいなと思う部分があった。たぶん父親のほうが暴力をふるってるんだろう、それを耐えることが悪魔との契約、と捉える歌も多く、それも母とのつながりを思わせる。

夜の庭宇宙の梨は香らずに風が吹いても分解されて

夜の心象だと察するが、いい歌だ。宇宙の梨はいい言葉。ニュートンの林檎と対比されるような提示だと思う。それはあるだけ、風も分解されて香らない。そういう無常観と壮大な空間に思いを馳せるのは、連作の流れとしてよくわかる。し、やはり主体にも気持ちの逃げ場は必要なんだと感じるが、反動的に壮大なものを惹起している歌は結構あるなと感じた。

このあたりの思いの馳せ方も、知識欲・学問への興味といったところに還元できる要素が大いにあると思う。

子供には微かなあわれみ歌ってね大人になった自分の声で

「自分の」の挿入が強調であるように思う。大人になった時の声で、で伝わるのを、あえて入れている気がする。多分、これは生物学・社会的に「大人」と判断されるタイミングと、「自分は大人になった」と精神的に感じるタイミングが違うからじゃないだろうか。主体が成長していく中で、大人に対する目というものは精神的なそれを支柱にしているように思う。そういう意味で、この連作の主体はずっと子供でいつづけていて、ここから先の歌として、永峰さんの歌人評につなげるのは難しいものがある。が、決意と精神性は引き続き同様だと思われる。

カタカナの学名いたく呼びにくく歌を覚えるような口もと

地味に好きな歌だ。学名、という要素が繰り返し評している知識欲に関わるアイテムなのはもちろんのこと、目の付け所がいいなと思う。歌を覚える、というのは「できる」ことだから、学名も「覚えられる」ことなのだな、とも感じる。

かなしみは悲しくない日を知っている大人のことば 子供の瞳

大人と子供の対比がここでも現れる。このあたり連作の終盤では、主体が大人になっているとは言いきれてないものの、子供を振り返るような歌を紡いでいる。そういう意味では、子供ではなくなってきているんだろう。けど、この歌もやはり大人目線ではなくて、その過渡期にいるからこその視点なんだと思う。

四句までだとすごくすっきりポイントを押さえた短歌って印象だけど、結句で疑問の渦に巻き込まれる。これはやっぱり、大人と子供どちらもを見ている視点なんじゃないかなあ。

人間の笑顔をふしぎに思うような獣の瞳で写真を撮りたい

連作最後の歌で初めて言及するのも申し訳ないが、人間と獣の対比、というのもよくでていた。この場合、自分を人間、他者を獣に対置しているというよりは、自分を獣がわに置いているように感じられた。これは、厳しい環境とはいえ文明化を生き抜いたものの、それは野性ともいえる、と主体が感じていることの裏返しかな。

全体的にひりひりする印象の歌が多く、永峰さんのほかの歌もいくつか知ってはいるが、そちらはもう少し壮大な景に思いを馳せているものが多い気がした。けれど、そのバックボーンとなる境遇と、欲求がこの連作に詰まっているから、提出してくれたのかもしれない。それくらいには、腑に落ちた。

ぼくたちは生き抜く知恵を学べずに夜のくじらの歌を夢見る

表題作ともいえる歌より。今の永峰さんの作歌ベースになっている、のかもしれない。

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