評bot 1
評botの公開評をここでまとめていきます。一度の記事で最大5評とし、特に溜まっていなかった場合は1評でも記事にすることといたします。
趣旨はこちらのツイートをご参照ください。
それでは始めます。なお、ご利用者様の筆名は敬称略表示とさせていただきます。
死にたいとポツリつぶやくその度にどこかへと飛ぶ鳥がいること /赤井 枝乃
下句の「どこかへと飛ぶ鳥」が、現実の話をしているのか心象の話をしているのか、両方でとることができるとは思います。普通に読めば後者なのかなと感じました。「わたし」の「死にたい」というつぶやきに対して「わたし」の中を「鳥」が飛んでいく、という読み筋は、「死にたい」というネガティブなつぶやきに伴うものがある、という実感を伝えてくるもので、私は心が動きました。
「飛ぶ鳥」そのものはフラットですが、「移動」を思わせる概念です。この歌は、「死にたい」というつぶやきを移動させることに成功しているなと感じました。いい歌だと思います。
気になったのは「ポツリ」です。「死にたい」とつぶやくたびに鳥が飛ぶという自動化の条件節として働いているようにも感じます。「ポツリ」じゃないつぶやきのときは鳥は飛ばないのでしょうか。いやいや、つぶやきなんて全部「ポツリ」でしょ。色々な考え方はあると思いますが、個人的には、なんとなく入れちゃった「ポツリ」のように思え、歌の心をすこし邪魔しているようにも感じました。
ご利用ありがとうございました。
墨汁を3:7で水割りしそのまま夜になった湖 /うきすけ
まず思ったのは、そうか、夜の湖は黒いよな、という気づきでした。これを思わせてくれただけで、この歌は一定成功していると思います。
もちろん、夜の湖が墨汁の水割りであるわけがないのですが、「夜の湖」だけを見たときに、「この色は夜だからってわけじゃあない」という発想を入れてくることで、「昼のことはわからない」という意識が発生し、ことさら「夜の湖」の個別性が浮き出てくるのかなと思います。また、湖という綺麗なイメージに墨汁をまぜるという背徳的な感覚を味わうこともできます。
「なった湖」の結句が言い切りになっていることは、気になりませんでした。こういう想像をすることが、すでに現実の夜の湖をイメージさせるトリガーになっているからです。しかし「3:7」はどうでしょう。この具体化が好きだと感じる人はいると思います。具体的で、不可能性が増して、面白いからです。しかし、その比率が作者の明言すべき領域なのか、読み手が自由に想像すべき領域なのか、私は疑問を持ちました。個人的には、「3:7」のおもしろに頼らなかったとしても、よい景を醸し出せたことに変わりはないだろうと感じています。
ご利用ありがとうございました。
訃報欄小さく記す、4文字の 目立ちたがりの若手アイドル /日本原産のチンパンジー
景としては若手アイドルが亡くなって訃報欄に載った、だと取りまして、この景そのものに人の心を動かすものはあると思います。人の死なわけですから。自殺なのか病死なのか事故死なのかはともかく、早世なのでしょう。これは普通は悲劇と感じるもので、「目立ちたがり」と突き放しているところに(倫理的にもやっとする部分はあるにせよ)、主体の心が読めます。この突き放し方は、表現としての責任はあるにせよ、短歌として成立しているなと思います。
初句二句の「訃報欄小さく記す」は、助詞があったほうが良いと思います。「訃報欄が小さく記す」なのか「訃報欄に小さく記される」なのか、同じことではあるんですけど、ここの能動受動を雑にまとめてしまうと歌として読みにくいです。おそらく、助詞を入れたところでそう気にならない字余りになると思います。
また、「4文字の」は、「ベッキー」みたいな「4音」としてとりました。そういう訃報欄ってどこか日本の本名が載るイメージだから、そうでない意外性を思ったのかなと感じたのです。とはいえ「前田敦子」だって「4文字」なわけで、その辺を適切に表せてはおらず、もしそういう意図があったのなら代替表現が望ましいでしょう。そしてそういう意図がないのであれば、あまり必要な情報であるようには感じませんでした。
ご利用ありがとうございました。
還そうか蝉は次々自由の身最後一匹仰向けそれきり /つるはら
「蟬」の変態という特性上、どこを読めばいいんだろう? と迷う歌です。「蟬」を「還す」というのが、「羽化」のタイミングを言っているのか、「寿命のまっとう」を言っているのか、はたまたどちらでもないのか。少なくとも両方ということはないでしょうから、作者の方に意図があった場合、その意図通りに読まれない可能性があると感じます。
個人的には後者の「寿命のまっとう」で読んでいたのですが、そうすると下句の「最後一匹仰向け」というのがなんで一匹だけなんだろう? というのが引っかかりました。これが「抜け殻」だっていうのならわかるんですが、しかし「次々」自由になっているのに「最後一匹」なのもなあという印象です。
ひょっとしたら、「蟬」はメタファーで、最後に残された蟬が自分なのだというような心象の歌なのかもしれません。それでもなんだか「還そうか」という外部からの目線と合っていないようです。全体的に表現がちぐはぐの印象を受けました。
ただ、結句の「仰向けそれきり」のリズムがいいです。これほんと、好きです。
ご利用ありがとうございました。
鬱屈をカエル足にて蹴っ飛ばす市民プールは西日眩しく /5月に生まれた、
「カエル足」というと、平泳ぎの足の動きを思い起こします。となると「蹴っ飛ばす」のはプールの側壁部分ではなくて純粋に水のように感じます。この行為がストレス発散になっているというのはよくわかります。
「西日眩しく」も、効いていると思います。時間帯も伝わってきますし、平泳ぎをしているのであれば、顔を水面に入れたり出したりの動作を思い起こしますので、息継ぎのたびに感じる西日という時間間隔もよく理解できます。なんとなく、光に向かって泳いでいるという明るい気持ちと、その光はこれから沈むのだというさみしさとを感じることができました。
「うっくつ」「けっとばす」という促音が続くのも、泳ぎのひとかきひとかきに思えてくる、いい歌だと思います。主体が紡ぐ、主体のための歌という感じがあり、読み手の心をものすごく揺さぶるタイプの歌ではないかもしれませんが、自身の周辺の把握と心象表明はうまくいっていると思いますし、作者が伝えたい景を私はちゃんと受け取れたんじゃないのかなと感じています。
ご利用ありがとうございました。
今回は以上です。
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